一 日清戦争と村

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 明治二七(一八九四)年七月、わが国は清国との戦争を開始した。わが国の朝鮮進出は征韓論以来の大問題であり、明治九(一八七六)年日鮮修好条規によって朝鮮の開国がおこなわれ、わが国は朝鮮進出の第一歩を踏みだした。しかし、これにより朝鮮の宗主権を主張する清国と、はっきり対立することになった。これ以後、朝鮮における勢力扶植をめぐって日清両国間のあつれきは次第に激化してきた。こうした折、朝鮮では東学党の乱という農民の反乱が起り、日清両国はともに朝鮮に兵を送った。農民反乱は両国兵の到着前にすでに終了していたが、その後の徹兵問題の処置をめぐってついに両国は戦争に突入したのである。日清戦争はわが国にとって最初の帝国主義的対外戦争であった。明治六(一八七三)年徴兵令施行以来、農村は兵士を送りだす軍隊の源泉であった。明治政府は富国強兵を国是にしてきたが、その強兵の多くは農村の子弟で占められていた。日清戦争の開始にともない昭島市域の村からも幾人かの青年が軍務に服した。しかし、日清戦争で実際どれだけの青年が戦場におもむいたかの詳細は不明である。その消息をわずかに伝えてくれるのは、昭和一二(一九三七)年、福厳寺に建立された「表忠碑」である。この碑の裏面にはつぎのような記載がみられる。
  西南役 二人
  日清戦役 七人
  日露戦役 一四人、同二六人、同二五人、同一人
  大正三年乃至九年役 一五人
  満州事変 八人
  上海事変 四人
 ここにあげられている人数は昭和村のみの数で、拝島村は含まれないがこれからみれば全国各地の農村青年と共に、昭島市域から少くも七名以上の青年が戦争に従軍したことは明らかである。
 青年たちを戦場に送った村も、戦争と無関係ではいられなかった。明治二六(一八九三)年五月、近衛師団は馬匹徴発事務細則にもとづき、北多摩郡に馬一八八頭を割り当てた。大神村組合には牡乗馬四頭、牡駕馬七頭、牡駄馬五頭の合計一六頭が割り当てられた。このうち何頭かは実際に徴発されたと思われる。
 日清戦争の進行はわが国の一方的な勝利であった。明治二七年(一八九四)九月一六日、日本軍は平壌を占領して清国軍を朝鮮国境外に敗退させ、翌一七日には黄海の海戦で清国艦隊を撃破した。ついで同年一一月、旅順口を攻略して戦況を有利に進め、翌二八(一八九五)年二月の威海衛占領、清国北洋艦隊の降伏で、わが国の勝利は確定的となった。同年三月二〇日、日清両国は下関で講和会議を開始し、清国全権李鴻章が狙撃されて負傷するという事件もあったが、四月一七日日清講和条約が締結された。
 この条約で清国は朝鮮の独立を承認し、わが国に遼東半島・台湾を割譲、賠償金二億両(テール)(約三億円)を支払う、などが取り決められた。遼東半島の割譲はロシアを強く刺激した。それにより南下政策が妨げられることを恐れたロシアは、フランス・ドイツと共に遼東半島の還付をわが国に要求してきた。いわゆる「三国干渉」である。このためわが国はやむなく遼東半島を清国に還付し、代りに償金を獲得した。
 三国干渉は日清戦争の勝利に酔っていたわが国に冷水をあびせるものであった。「臥薪嘗胆」は国民的スローガンとなり、そうした国民感情を背景に、政府はロシアとの衝突に備えて、軍備の大拡張にのりだしていった。
 こうして日清戦争の結果は、つぎの日露戦争へとわが国をかりたたせることになった。