三 拝島村の分離独立

1479 ~ 1480 / 1551ページ
 明治二一(一八八八)年の町村制施行以来、大神村組合を継続してきた組合村は、明治三五(一九〇二)年にいたり拝島村の独立という事態をむかえた。これにより昭島市域の村は組合村大神村八ケ村と拝島村との村政を異にする二村に分離することになった。組合村という組織は、内部の各村にそれぞれ強い独自性を保持していたこともあり、そうしたことが表面化して分離問題が生じたのであろうが、直接の原因は当時流行した赤痢病に対する衛生費負担のこじれであった。「拝島村誌(註一)」によれば、拝島村独立の事情はつぎのようにいわれている。
  明治三三年たまたま本村に赤痢病が流行して、その衛生費が組合村全体の負担となる点から他部落の不平が勃発し、拝島村を除外して八ケ村で三好野村と仮称して独立村制を施かんとする協議など、やや具体的になったので、長は本村の有力者に側の情勢を説き、寧ろ拝島村が独立して自治制を施くべく勧請した結果、同年十二月村会に諮りて満場一致してこれを決定し、同三十五年四月本村は九ケ村組合から正式に分離し独立となり(後略)
 組合村の分離をひきおこした赤痢病は、明治三〇(一八九七)年前後に、各地で大流行し、多くの死者をだした。このとき宮沢村には羅病者用の隔離病舎が建てられている。流行が頂点に達した明治三二(一八九九)年の組合村の伝染病予防費は、五一一四円七八銭七厘の巨額にのぼり、その負担がいかに村財政を圧迫したかを知らされる。
 拝島村の独立により組合村に残った八ケ村は村役場を大神村におき、大神村外八ケ村組合としては村営にあたった。一方、拝島村は村長に秋山朝三郎を選び、新たな村づくりにむかった。
 なお、当時の各村の戸数と人口はつぎのとおりである。
        戸数     人口            戸数    人口
  拝島村   二七五   一五七三    上川原村   三〇    二二六
  中神村   一二一    八六五    田中村    四一    三三五
  大神村    七五    五五七    福島村    八二    七一五
  宮沢村    五三    四一七    郷地村    五三    四一三
  築地村    二六    一九四
                                      (「徴発物件一覧表」内閣文庫蔵)