この勧告により同年八月一〇日から、アメリカのポーツマスで日露講和会議が開催された。会議は講和の条件をめぐって難行したが、すでに国力の限界に達していたわが国は不利な講和条約にも調印せざるをえなかった。九月五日、わが国は南樺太領有・満州の利権・朝鮮の支配権獲得などを内容とする日露講和条約に調印し、ここに世界の注目を集めた日露戦争はようやく終結をむかえたのである。
日露戦争は日清戦争とは比べものにならない大戦争であった。それは国力を賭しての総力戦争であり、戦費・死傷者ともに日清戦争のほぼ七倍に達した。昭島市域の動員者数も多く、前述の表忠碑と拝島公園内の日露戦役紀念碑とによれば、前者には六六名後者には三九名合せて一〇五名の名を数えることができる。これは明治三六(一九〇三)年の市域の総戸数が七五六戸であるから、約七軒に一名の割合で動員されたことになる。このうち小室亀三郎(大神村)、三田源太郎(福島村)、志茂嘉助(大神村)、浅見弥市(宮沢村)、小林次郎(宮沢村)、大貫太二(田中村)、秋山浜次郎(拝島村)、林田房五郎(拝島村)、小林嘉茂(拝島村)の九名の人々は、再び生きて村の姿を見ることができなかった。
戦争の影響は村にも大きく波及した。政府は戦時財政計画にもとづき、広範な増税をはかり戦費財源の確保にあたった。こうした増税体制のもとで町村は地方課税を制限され、緊縮財政策を余儀なくされた。拝島村では、基本財産蓄積停止は従来「災害」のみであったのに、「戦時事変」を停止の範囲に加え、基本財産蓄積を停止した。村民が負担にたえられなかったからである。
それでも村は甘んじて、その負担にたえた。
条例第四条改正ノ要タル日露ノ平和茲ニ相破シ宣戦ノ 大詔煥発セラレ両国ガ旗鼓相見ユルノ今日決死報告ノ覚語ヲ以テ軍国ノ事ニ従ハサルヘカラス此時ニ際シ地方ハ経費ノ重キニ堪ヘ国家富強ノ実ヲ挙クルハ臣民ノ任務ナレハ各自勤勉シ節約ヲ旨トシ百折不橈之レヲ実行シテ後顧ノ憂勿ランコトヲ期シ以テ平和ノ克服ニ至ルヲ待ツヘキナリ故ニ此時局ヲ将来ニ鑑ミ事業繰延等ノ趣旨ニ則トリ蓄積ヲ停止スルノ止ムヲ得サル所以ナリ
(「会議録」市役所文書)
また七軒に一軒という出征兵は、当然農家の働き手を奪うことになり、直接に生活の困難をもたらすことになった。拝島村村会は動員された軍人の留守家族で貧困な家には、村税の賦課を免除する議決をおこなった。しかし、政府は「右ハ違法ノ議決ニ付速ニ村会招集該取消ヲ」議決して報告せよと冷めたい命令を下している。
そうしたなかで、大神村奨兵義会は明治三七(一九〇四)年四月、非常召集をうけた軍人の留守家族に一家族五円宛支給し、ついで同年九月二五日、総会を開き、つぎのような決議をおこなった。
大神村奨兵義会決議録
明治三拾七年九月廿五日観音寺ニ於テ大神村奨兵義会総会ヲ開ク出員人員三拾九名午后九時議事開会
一奨兵義会基本金額ヲ定メ之レヲ募集スルノ件
右金額ハ金壱百五拾円ヲ目的トシ直チニ会員ノ寄附ヲ募ル事ニ決ス
二該寄附金徴収期限
明治三拾七年十月十五日仝三十八年六月十五日仝九月十五日ノ三回ニ徴収スル事ニ決ス
但必要ノ場合ニハ一時ニ徴収スル事アルヘシ
三出兵者ノ贐及留守慰問病傷者手当
本金額ノ定度ハ前例アルモノハ之レニ従ヒ前例ナキモノハ委員会ノ決議ヲ以テ相当ノ金額ヲ定メ之レヲ贈与スル事
但本件ハ随時委員会ヲ開キ其決議ヲ以テ委員長之レヲ執行ス
四平時ト戦時及事変ノ際トハ自ラ本会ノ執務ニ異動アルヘキニ付委員会ハ適宜ノ方法ヲ講シ之レヲ決行スル事
(中村保夫家文書)
ここでは大神村の例をあげたが、同様な動きは他の村々でもおこなわれたと思われる。
農村はまた軍需品の補給地でもあった。『武蔵野市史』によれば、軍部は北多摩郡地方で大量な大麦を買いつけた。拝島村では四三〇・五石、中神村組合では八八六石の大麦が買い上げられた(註二)。
こうして日露戦争は、日清戦争とは比較にならない規模で、村々を戦争にまきこんでいったのである。
日露戦役忠魂碑(福厳寺境内)
補註
一 山崎藤助編四六頁 拝島村役場 昭和二六年
二 武蔵野市史編纂委員会『武蔵野市史』五八四頁 昭和四五年