一 明治後期の産業と経済

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 日清戦争後、わが国の資本主義は軽工業を中心とする第一次産業革命をほぼ達成した。この頃には製糸業の機械化も進み、器械製糸の生産量は、すでに座繰製糸の生産量をおいこすまでになった。日清戦争後から三〇年代初にかけ、わが国の産業界は戦争気分と賠償金に対する期待とによって、大変な企業ブームを呼んだ。
 こうした産業界の活況や生糸価格の高騰もあって昭島市域でも、明治三〇年前後に製糸工場があいついで開業されてきた。西川製糸・神山製糸場・中村製糸場・同伸社・小池製糸場・博信社などがそれで、いずれも明治二八(一八九五)~三二(一八九九)年ごろに建設されたものであった。これらの工場は、それぞれ四〇~一〇〇名前後の従業員をもって操業していた。
 当時、各工場がどのような経営形態をもっていたかはあきらかでないが、博信社の「博信社社則」(石川善太郎家文書)が残されているので概略を述べてみよう。博信社は「地方有志者結合シ改良製糸ヲ製造シ一定ノ束装荷造ヲナシ合同販売ナスヲ目的」に明治二九(一八九六)年に創業された。営業期間は一応五ケ年間に限定していたが、社員の同意によって延長することができた。社員は「工女人数ニ対スル本社揚枠場ノ建築費負担スルモノト」し、四七名が社員となっている。それらの社員による出資金の合計は六三六円五〇銭、出資額の最高は八七円五〇銭、最低は三円五〇銭で、大半は一〇円未満の小額出資者であった。

西川製糸 玉繭荷受場の光景(西川製糸絵はがきより)


西川製糸 繰糸工場の内部(西川製糸絵はがきより)

 博信社は「本社各自ノ製糸ヲ集メ検査ノ上左ノ等級ヲ定メ」るというように、養蚕農家が繰糸した生糸を、同工場で揚返しや包装などの仕上げをおこない共同販売する、組合製糸の形態で営業する会社であった。
 製糸工場の開業は、また金融機関の成立をうながすことになった。明治三〇年前後の企業ブームは、地方産業を背景とする多くの銀行をも生みだすことになった。「八王子附近金融機関興廃調査」(中村保夫家文書)によれば、明治期に創立されたこの地方の銀行は三九行で、創立年不明を除いた三〇行のうち、二〇行までが二九年(一八九六)から三四年(一九〇一)までの間に創立されている。地方産業の発展が、こうした多くの金融機関の創立を招いたのである。
 昭島市域についてみれば、つぎの三つの金融機関が明治期に創立されている。
   社名     創立年月     解数及廃止年月  所在地
  資成社     明治       明治解散     大神村
  多摩農業銀行  明治二九年六月           大神村
  拝島産業銀行  明治三三年六月           拝島村
 
 拝島産業銀行は、同銀行の「定款」(中村保夫家文書)によれば「産業ノ改良進歩ヲ計ル為メ資本ヲ貸与スルヲ以テ目的ト」して、資本金は六万円をもって開行された。株主は一一一名であるが、その所有は「拝島村在籍居住者」に限られていた。大株主は青木伝七(一三七株)、宮岡与吉(一二七株)、榎本広輔(一〇〇株)らで、初代頭取には宮岡与吉が就任した。
 多摩農業銀行は「明治三十一年下半期、第五回営業報告書」(石川善太郎家文書)でみれば、資本金五万円、株主は三五名で、そのうち一〇〇株以上の者は中村半左衛門(一〇〇株)、田村金十郎(一〇〇株)、伊藤彦三郎(一〇〇株)の三名で、中村半左衛門が頭取であった。
 なお、報告書中の「営業ノ景況」は、当時の昭島市域の経済状態をよく伝えているので、つぎにかかげてみよう。
   営業ノ景況
 本期間当銀行営業ノ景況ハ各項ニ所蔵ノ如クナレトモ其梗概ヲ摘記シテ参考ニ資スルノ要アラン抑本期ハ当地主要物産ノ産出期ナルヲ以テ資本ノ供給ハ前期ニ比シ一層頻繁ナルハ之ヲ常例トス而シテ貸与金利子及手形割引料ノ如キ金融ノ引締ルニ伴ヒ漸次昂騰シ近来曽テ見サル所ノ好況ナリシモ如何セン地方物産ノ首位タル蚕繭ハ甚タ凶歛ニシテ米作モ亦豊熟ナラス之レニ反シ必需ノ物価ハ破格ノ騰貴ナルカユエ一般生計上非常ノ困難ヲ成シ生活費ノ為メニ資本ヲ消耗スルノ有様ニテ当座預り金ノ如キハ前期以来大ニ減少シ之レ等ヨリ収ムル所ノ差益ハ殆ント無カ如シ此場合ニ処シテ一期信用取引上ニ過チアランカ挽回ノ策ナキヲ慮リ一層警戒ヲ加ヘタルト貸越金ノ固定シタルノ結果ナランカ前期間ニ比シテ資金運用上拾弐万余円ヲ減少シタレトモ純益ニ於テ反ツテ好成績ヲ得タルハ即チ金利引上ケニ起因セルモノナリ