一 大正期の概観

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航空機産業の進出(『今昔写真集たちかわ』より転載)

 明治四五(一九一二)年七月三〇日、明治天皇は崩御され、ここに明治天皇のいかめしい軍服姿に象徴される重厚な明治は終り、相対的に軽快ともいうべき大正時代が始まる。大正期は大正デモクラシーと呼ばれるように、民衆の活動が活発になり民衆の政治参加という新しい状況を生みだすことになった。大正の幕あけが第一次護憲運動であったことは、それを明示しているといえよう。
 この運動は大正元(一九一二)年一二月に成立した桂太郎内閣が藩閥・軍閥の巨頭であったことから、藩閥内閣反対の運動として展開されたものであった。桂の辞任を要求する数万の民衆は憲政擁護を叫んで国会を包囲し、桂は民衆の圧力の前に内閣を投げださざるをえなかった。いわゆる大正政変がこれで、民衆の運動が政府を倒したものとして画期的なできごとであった。
 大正三(一九一四)年から同七(一九一八)年まで続いた第一次世界大戦は、その規模の大きさと影響の深刻さとにおいて、世界史上かって例を見ないものであった。わが国の産業界は大戦によって未曾有の好景気をむかえ、資本主義は大きく発展したが、好況にともなう物価の騰貴は、国民の生活を苦況に落し入れることとなった。米価は高騰を続け、大正七(一九一八)年八月には一升五〇銭を突破して、戦争前の四倍にも達した。この月、富山県魚津町の漁民の主婦たちは米の県外移出の積込みを拒否したうえ、廉売を求めて米屋を襲ったことを契機に起った米騒動は、たちまち全国に広まった。東京にも八月一三日、騒動が波及した。政府は軍隊を出動させて鎮圧につとめる一方、恩賜金や国庫金を支出して米の廉売を行なうなどの措置を構じた。
 昭島市域の村でも、当然廉売は行なわれたと思われるが、その史料はみることができない。ただ米騒動に関するものとして、つぎのような困窮者に救助金を寄附した感謝状がある。
          北多摩郡拝島村
                   宮川国太郎
  大正七年九月米価暴騰ノ際北多摩郡拝島村細民救助ノ為金拾円寄附候段奇特ニ付為其賞木杯壱箇下賜候事
  大正七年十一月三十日
                          東京府知事正四位勲二等法学博士井上友一
                                             (宮川芳久家文書)
 米騒動での民衆のエネルギーと政府の責任を追求する世論とによって、寺内内閣は辞職せざるを得なかった。代って原政友会内閣がわが国最初の政党内閣として登場してきた。
 米騒動の直後から第二次護憲運動とも称すべき普選運動が急速に民衆の間に広がっていった。大正八(一九一九)年の末には、普選期成同盟の大会が開かれ、翌九(一九二〇)年に入ると運動は最高潮に達し、二月には七万五〇〇〇人の人々による普選要求の大規模なデモが行なわれた。
 こうした激しい民衆運動により、選挙権の制限は漸次緩和の方向に進み、政府は大正八(一九一九)年、まず納税資格を直接国税一〇円から三円に切り下げた。ついで大正一四(一九二五)年、加藤高明を首班とするいわゆる護憲三派内閣のもとで、普通選挙法は治安維持法と抱き合せの形で成立するのである。
 以上述べてきたような大正期の民衆運動の展開は、また地方自治制度の改正をうながす原動力でもあった。