第2表 養蚕生産高
大正四(一九一五)年、昭島市域で石灰の発掘を願い出た者があり、組合村当局はそれに反対し「石灰礦試掘願ニ対スル意見書」を郡に提出した。その中で当時の昭島養蚕業の活況をつぎのように伝えている。
(前略)今出願地域ニ居住スル者及ヒ雇人別ツ挙クレハ居住ノ人口総数四千三百六十人戸数五百七十二戸製糸家三戸此雇工男約四十人女約三百六十人養蚕家四百五十戸此臨時雇人女八百人男七百人蚕種製造家百三十人其係総人口五千百九十人此産額蚕種拾万枚価格拾弐万円繭弐万弐千五百貫価格拾万八千円製糸三万斤以上価格参拾万合計五拾弐万八千円ハ以テ壱ケ年ノ産額トス而シテ出願地域ニ現存スル桑園地積ハ百七拾余町ナリ居住民ハ之レ等収益ニ拠リテ以テ生計を支フル義ニ有之候(後略)
(中村保夫家文書)
こうした養蚕業の隆昌のなかで、とりわけ養蚕村としての市域の名を高めたのは蚕種生産であった。
明治四五(一九一二)年、重要物産同業組合法により、蚕種の品質向上・販路の拡張をめざす東京蚕種組合が設立され、東京蚕種業者の大同がはかられた。この創立委員会には昭島市域から石川国太郎(大神村)、伊藤彦三郎(宮沢村)、田村金十郎(宮沢村)、村田金蔵(田中村)、紅林七五郎(郷地村)、榎本亀太郎(拝島村)、志茂芳候(大神村)と七名の人々が参加している。これは創立委員に参加した有志二二名のほぼ三分の一を占めるもので、当時すでに東京蚕種業界において昭島がいかに高い位置にあったかをよく示している。
大正三(一九一四)年七月、第一次世界大戦が勃発すると、その影響を受けて生糸価格は下落した。しかし、大正六(一九一七)年に入り大戦景気の招来と共に生糸価格は高騰し、繭価も上昇していった。生糸・繭価の高値につれて養蚕農家数も増加して、蚕種の需用が多くなると、昭島市域の蚕種業は東京蚕種業界の牽引車的役割を担うことになった。昭島市域の蚕種業の最盛期は大正九(一九二〇)年であったが、この年の史料がみあたらないので、大正八(一九一九)年の例でみるならば、(第3表参照)、同年北多摩郡で生産された蚕種量のうち春期の五三%、秋期の六三%は昭島市域で生産されたものであった。そして、それはまた東京府の蚕種産出量の約三分の一を昭島市域で占めていたことを物語っていた。
第3表 大正8年蚕種製造量
こうした昭島市域における蚕種業・養蚕を含めた蚕業の発展に寄与するところ大であったのは成進社の石川蚕業講習所(大神村、石川国太郎)と紅林蚕業講習所(郷地村、紅林徳五郎)とであろう。成進社は明治二三(一八九〇)年、西多摩村の下田伊左衛門が中心となり石川国太郎らと創設、明治四一(一九〇八)年石川・紅林・下田・高崎(福生村、高崎治平)の四ケ所の講習所に分所されたもので、優良蚕種の製造販売・蚕業技術指導者の養成(講習生は一万人にもおよんだといわれる)、一般養蚕農家に対する改良技術の指導にあたるなど、蚕業普及の上に大きな足跡を残している。そうした成進社活動の一翼を担った石川蚕業講習所の石川国太郎は、大正元(一九一二)年東京蚕種同業組合が創立されると副組合長をつとめ、後には組合長として組合の発展に努力した。また日露戦争後、農業多角経営の一環として蚕業部を設け、村民に範を示した紅林徳五郎の紅林蚕業講習所は、大正四(一九一五)年下田の死を境に成進社の本社ともいうべき下田講習所や他の講習所が次第に下降をたどるなかで、成進社の中心的存在となっていった。
最後に生糸業について述べておくなら、西川伊左衛門経営の西川製糸は大正五(一九一六)年、資本金四万二〇〇〇円の合資会社に発展し、北多摩郡下においても有数の大工場にかぞえられていた。
このように大正から昭和にかけての昭島は農家の大部分が何らかの形で養蚕業にかかわり、村は青々とした桑園でうずめられていた。