拝島村の分村後、中神村ほか七ヶ村は、中神村八ケ村組合として村営を続けてきた。しかし、組合村という形態は一ヶ村としての性格が薄く、自治体のあり方としては正常なものではなかった。村運営の上からいっても、村政の仕事が増加し複雑化してゆくなかで、組合村各村々との二重の行政組織は不便であった。だが、そうではあっても長年培われてきた組合各村の独立心は比較的強かった。それだけに一村型態としての昭和村の誕生は難産であった。「昭和町誌(註一)」は、昭和村の成立にいたるそうした困難さをつぎのように述べている。
組合村の組織が、自治体としての変則的存在であるので、その間幾度か府当局の示達斡旋があり、識者も亦時代の要望に添うべく努めたが、何分にも各部落間の利害が錯綜して居り、感情のもつれもあって容易に村制の施行が出来ずに遂に昭和の年代になった。茲に府当局も愈々強硬な態度をもって村制施行を強要し来り、さしも難題であった村制施行も御大典記念として昭和三年実現し、組合村を合併して一村を組織し昭和村と名称することとなったのである。
昭和村の成立を知る史料がほとんど残されていないので、町誌の記述を借用したわけであるが、そこでも述べられているように、村民の中には何とか部落ナショナリズムを克服してゆこうとする動きもあった。そうしたものとして、大正一三(一九二四)年、青年団の団報「やつで」に掲載された論文を紹介してみよう。それは「中神組合の現在及将来」と題する論文で、組合村のあり方を批判した上で、つぎのように主張する。
然らば現在この組合地は如何にも時代後れの様に見えますが、その中に在っても他町村の右に出て居る所も多々ありますが、青年団の如きは其の最も顕著なるものの一つであります。組合村と云ふことにも相当の理由のあることとも思はれますが一と度瞳を他町村に向けたならば、滔々として移り行く社会の流れに任しても現状維持で行くことは時潮に伴もなふやり方でありましょうか。将来いまの様に小さな部落のあつまりでやりたいことも、小さな故に放任して置き勝ちにして置くか。さもなければ八ツのものを一と束にして新に一村として生れるか、どちらかの一つを選ばなければなりますまい。私としては後者を選びたいと思います。(後略)(石川善太郎家文書)
昭和村の成立には、こうした人々の力が表面にはでなかったかも知れないが働いていたことであろう。
昭和三年一月、中神村組合の各村は、長い組合村の歴史の枠を脱け出て、昭和村としての歩をふみだしたのである。
補註
一 山崎藤助編 一四頁 昭和町役場 昭和二四年