四 農村更生運動の展開

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 昭和恐慌にみまわれた農村に対する政府の対策は米価対策、負債整理対策、時局匡救事業、農村経済更生計画などに代表されるが、そうした救済策の中心となったのは経済更生計画であった。これは政府が特定の村を指定し府県知事の指導のもとに、村の産業および経済の計画的な刷新をはかるというものであった。拝島村は昭和七(一九三二)年「拝島村経済更生委員会」を設け、経済更生計画の樹立を進めた。
 これより先き、拝島村ではすでに村の更生を進めていた。昭和六(一九三一)年三月、村は「農村漁村失業対策低利資金」によって、府から七〇〇〇円の蚕桑改良事業費を借り、荒廃した桑園の改植費にあてて、養蚕の復興をはかった。
 経済更生計画の一環として、昭和一〇(一九三五)年、負債整備事業が着手された負債整理は農民が負っていた負債を、政府の融資と農民の自力とによって整理しようとするものであった。
    起債ノ件
  一起債ノ目的 負債整理事業資金ヲ負債整理組合ニ貸与ノ為メ
  一起債金額  金弐万七千八百円
  一借入時期  昭和十年度 但シ負債整理事業進捗ノ都合ニヨリ其一部ヲ翌年度ニ繰越借入スルコトヲ得
  一利息ノ定率 年四分五厘以内
  一借入先   大蔵省預金部
  一据置期間  借入ノ日ヨリ昭和十二年度迄
  一償還期限  自昭和十三年度至昭和廿七年度 十五箇年度ニ於テ別紙償還年次表ノ通 但シ村財政ノ都合ニ依リ償還年限ヲ短縮シ又ハ繰上ゲ償還ヲ為シ若クハ低利債ノ借替ヲ為スコトヲ得
  一償還財源 貸付返還金及村一般歳入
  付 翌年度ニ繰越起債シタルモノニ付テハ据置期間及償還開始年度ヲ各一ケ年度繰下ゲルモノトス
      昭和十年九月十日議決
                                    拝島村長 田中健一郎
                                          (「会議録」市役所文書)
 村では昭和三(一九二八)年から滞納整理に着手していたが、やがて各部落に納税組合が組織されるなど、負債整理事業の進行も軌道にのり滞納も漸次減少し、昭和一四(一九三九)年にいたり滞納整理を完了することができた。
 また、農村更生運動の重要な実行機関をなす産業組合が昭和一一(一九三六)年設立され、拝島村の更生計画はその歩をさらに一歩進めることになった。
    産業組合設立理由書
  本村は北多摩郡の西部に位し戸数三五〇、人口一九一七名、耕地面積田三五町、畑二〇〇町にして村内の主要生産物としては米の生産高七〇〇石、小麦一〇〇〇石、繭一〇〇〇貫に達すと雖も、之が販売並に産業用肥料其の他原料品の購入に際して統制せる機関なく、又金融の方面に於ても銀行等なく不便不尠、然に偶々昭和七年度東京府経済更生指定村となり、着々諸種の計画を樹て実績を挙げつつありと雖も、産業組合の設立及之が運用の伴はざる為常に不便を感じつつありしに、今回村内有力者の主唱に依り保証責任拝島村信用販売購買利用組合を設立し以て以上の欠陥を補はんとするにあり
                                              (拝島村誌)
 このほか失業対策として土木事業が計画された。
   農村振興土木事業道路改修工事施行ノ件町村道裏通 北多摩郡拝島村字多摩辺
  一道路改修工事 延長六百弐拾六米六、幅五米五
  工事費金弐千円也
   右道路改修ハ農村振興土木事業トシテ府費ノ補助ヲ受ケ施行セントス
                                  拝島村長 田中健一郎
     昭和八年十一月二十一日議決
                                        (「会議録」市役所文書)
工事費は二〇〇〇円とわずかではあるが、こうした事業は何回かおこなわれて、拝島村の人々の救済の一助をなしたのである。
 以上、史料の制約があって拝島村のみをとりあげたが、昭和村でも事態はそれほど異なるものではなかったであろう。
 昭和恐慌下の農村更生運動は、それを通じて国家の統制を強化することになった。産業組合は村内の全農民を組合員とすることで、国家の農業統制機関として農民を全面的に支配してゆくようになったし、また負債整理組合も連帯責任など共同体の隣保的な力を利用して、国民統制の役割を担ったのである。