二 町制の施行

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 昭島が一農村から軍需産業都市に変貌していったのも、そうした航空機メーカーの一つ、昭和飛行機工業株式会社の設立によるものであった。昭和飛行機は昭和一二(一九三七)年六月、六〇万坪におよぶ広大な敷地を買収して設立され、翌年から航空機の製造および修理作業を開始した。そして、戦争が続くなかで事業を拡張してゆき、やがて三多摩地区では立川飛行機、日立航空機と並ぶ大航空機メーカーとなった。
 昭和飛行機工業会社が設立すると、昭島市域には、その下請協力工場や陸軍航空工廠・名古屋工廠などの関連軍需工場の建設があいつぎ、昭島の様相は一変した。昭和一〇(一九三五)年と一六(一九四一)年との人口を比較してみれば、昭和町の人口は約三倍、世帯数は約三・六倍、拝島村の人口は約一・七倍、世帯数は約一・七倍と、急膨張している。(第1表参照)

第1表 昭和町(左)・拝島村(右)の世帯数・人口の変遷

 これはいうまでもなく、各工場の従業員住宅が建てられたためで、桑園地帯は新たな住宅が立ち並ぶようになった。農家でも蚕室を改造して工場従業員の宿舎にする家が増えていった。昭和村の昭和一三(一九三八)年の農業戸数は四四六戸で、全戸数の三二%を占めるにすぎず、その農家戸数自体も昭和一〇(一九三五)年に比して三〇%近くも減少していた。こうして昭和村の農村色は急激に薄れていった。
 人口の増大がいちじるしく、軍需産業都市として村勢が伸張に向うようになると、村でも町制施行の企図がおこってきた。昭和一五(一九四〇)年六月、立川町は隣接町村を合併する市制施行を計画し、昭和村も勧誘をうけた。しかし、昭和村は独自の町制実施の道を選び、昭和一六(一九四一)年一月一日、待望の町制施行をみるにいたったのである。