二 太平洋戦争下の昭島

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 昭和一六年一二月八日、わが国は真珠湾を攻撃して太平洋戦争に突入した。戦争の重圧は国民の生活の上に重くのしかかった。戦争には国の総力を投入しなければならず、国民の衣・食・住は極度に切りつめられた。生活必需品では、米穀が一六(一九四一)年四月より配給制となり、翌年二月には衣料が切符制となった。またマッチや石けんなど、ほとんどの日用品もつぎつぎに配給制となっていった。

防空演習バケツリレー(白川久江氏提供)

 莫大な戦費や貨幣インフレ防止のために、貯金や国債の消化が半ば強制的に進められ、資金の吸い上げがおこなわれた。
 拝島村農業会の預金額も
  昭和一五年     九三九円
  〃〃一六年    三七一〇円
  〃〃一七年    七九六五円
  〃〃一八年   五九二八一円
  〃〃一九年  二一四〇〇八円
                             (拝島村誌)
と年をおって増大している。
 農村では米・麦・芋類などの食糧増産が要求され、桑園などはつぶされるものも多かった。しかも生産された農産物は供出で、政府に強制的に買い上げられた。だが、肥料の減産と徴用・応召による労働力の不足は、農園をしだいに荒廃へおいやって、農業生産は減少の一途をたどらざるを得なかった。
 拝島村では昭和一七(一九四二)年、食糧増産対策費として八〇〇円の予算を計上するが、村の生産はその年から減産の傾向が目だってくるのである。

第1表 拝島村の主要農産物の生産高