三 空襲

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 昭和一七(一九四二)年四月一八日、航空母艦から飛び立った米軍の爆撃機は京浜地区を初空襲した。空襲が現実になると防空対策も切実なものとなってきた。拝島村は同年、貯水池三個設置の費用二〇〇円を防空施設費として予算に組み入れていた。翌年になると防空訓練は一段と激しくなり、同一九(一九四四)年には灯火管制の訓練も行なわれるようになった。
 昭和一九(一九四四)年六月、サイパン島が米軍の手に落ちると、空襲の到来はもはや時間の問題となった。B29を主力とする東京地方に対する空襲は同年一一月から本格的にはじまった。同年の昭和町の防空費は五、六七〇円の予算であったが、実際には一万八二九四円が支出されるほど状態は悪化していた。
 昭和二〇(一九四五)年に入ると空襲は激しくかつ大規模になり、昭島市域も空襲の洗礼ををうけるようになった。四月四日、昭島市域も始めて空襲をうけ昭和飛行機が狙われた。
 これ以後、昭島も何回か空襲されるが、その状況は「東京大空襲・戦災誌(註一)」によれば、つぎのようである。
  四月二九日
  昭和町郷地ニ爆弾二個落下シ家屋全壊三戸、半壊一戸、即死者一名、負傷者二名ヲ出セリ
  昭和町福島田中ニ爆弾三個落下セルモ人畜に被害ナシ
  昭和町福島向宿ニ爆弾六個落下、民家全壊二戸、半壊二戸ヲ出シ死者四名、重傷者二名ヲ出セリ
  四月三〇日
  昭和町陸軍航空工廠ニ投弾アルモ火災ナシ被害等不明
  六月一一日
  拝島村民家機銃掃射ヲ受ケタルモ人的被害ナシ
  昭和町昭和飛行機株式会社機銃掃射ヲ受ケ輸送機一機焼失ス
  七月八日
  昭和町罹災
  八月二日
  昭和飛行機株式会社四棟(五〇〇坪)全焼
  昭和町民家約五〇戸全焼
 激しい空襲のもとで、町も村も戦場と同じであった。それでも人々は本土決戦による最後の勝利を信じていたが、太平洋戦争は昭和二〇(一九四五)年八月一五日、わが国が無条件降伏によって終った。
 補註
  一 東京の空襲を記録する会編「東京大空襲・戦災誌」第三巻 六七二~六頁 昭和四八年