一 終戦

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 昭和二〇(一九四五)年八月一五日、わが国はポツダム宣言を受諾し無条件降伏をした。八月三〇日には連合国軍最高司令官マッカーサー元帥が厚木飛行場に到着した。ついで三日後の九月二日には米艦ミズリー号の艦上で、降伏文書の調印がなされ、ここに連合軍の日本占領時代が始まった。越えて九月三日から四日にかけ、米軍進駐部隊は立川・横田両飛行場に進駐し、昭島の東部と北部とに軍事基地が設けられることになった。
 昭島の工業の中心であった軍需工業は敗戦と共に、わが国の軍事力を徹底的に破壊しようとする占領軍の命令にしたがって、解体または繰業が停止された。昭和飛行機は終戦直後一時作業を停止していたが、まもなく主体工場を連合軍に接収され、軍の直轄下で軍用自動車修理および部分製造にあたることになった。昭和飛行機は何とか操業を再開したとはいえ、それはむしろ例外的事例であった。軍需関連工場の解体や繰業停止により、それらの工場に徴用されていた人々および家族らは昭島を離れてゆき、昭島の人口は敗戦を境に一万四〇〇〇人も減った。とくに昭和町の減少がいちじるしく、人口は前年の半分に激減している。
 終戦を機に昭島から離れて行く人々と反対に昭島に入ってくる人も少くなかった。昭島市域から戦場に行っていた人々が帰ってきた。だが、戦死者の数も多く、昭島の戦死者は五六〇余名にのぼり、これまでにない多くの犠牲者をだした。
 また、復員したが家を失った人や海外から引揚てきた人が新しく入ってきた。昭和二二(一九四七)年、昭和町は
  引揚者総数 一四五二世帯
   引揚者取扱数 五二四世帯
   復員者取扱数 九二八世帯
                                (「事務報告」市役所文書)
と多くの人々を迎え入れている。また拝島村でも戦災者や引揚者の人々が温くむかえられた。
        戦災者  引揚者
 昭和二十三年 一〇八名 一五九名
 昭和二十四年 二一二名 二二五名
 昭和二十五年 二〇二名 二三八名
 なお、これらの人々の住居には旧軍需工場の工員住宅が提供された。

第1表 昭和町・拝島村人口増加表