三 戦後の復興

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 昭島が戦後比較的順調に発展したのは、やはり食糧生産地帯であったということも大きな理由の一つであろう。拝島村の農生産も二二、三年ごろから上昇を示してくる。農家戸数は相対的に減少していたが、終戦時の事情を考えれば食糧生産地帯という条件は大きな支えであった。そうした土台に立って、工業も回復してきた。昭和飛行機を中心に発達した昭島の工業は、戦後多くは廃業し、平和産業へ転向した企業も困難な経営を続けたが、立川基地の工事量の増大にともなって建設業が大きく進出してきた。「昭和町誌」は、その事情をつぎのように伝えている。
   尚終戦以来米軍の進駐によって、各種の建設工事が興された結果、建設工事の急速な発達を来したことも注目すべきである。本町に於ける建設工業としてその主なるものは、竹中建設、太陽興業、昭和拝島建築合同事業部、伊藤工務店、植松組、堺建設、昭和土建等で従業人員は六千二百余名に達している(註二)。
 昭和二三年当時の産業別就業者は第3表のとおりで、建設業の六二〇〇人は製造業の二〇〇〇人を大きく引き離している。

第3表 昭和町産業別就業者調査(昭和23)

 昭島の人口は昭和二二(一九四七)年には戦中の景盛時を上回るまでに回復していた。公共施設も昭和二三(一九四八)年、昭和町警察署が設置され、同じ年立川消防署の出張所が開所した。
 また教育に眼を向けてみれば昭和二二(一九四七)年四月、六・三・三制の施行にもとづき、同年拝島中学校、昭和中学校が新設され、小学校も同二四(一九四九)年富士見丘小学校が増設、また町立昭和高校もこの年開校となった。
 交通は昭和四(一九二九)年の立川バスについで、昭和二五(一九五〇)年から五王バスが開通し、人々の足を確保した。
 そうした昭島の発展は青梅線の乗降車人員の増加にも現われており、とくに二三年には大幅な増加をみせている。これらにみられる昭島伸張の動向は、戦後の混乱から脱けでて新しく変貌しようとする昭島の姿をよく反映していると言えよう。

第4表 青梅鉄道各駅乗降人員数の推移


拝島橋開通(昭和30年)

 補註
  一 山崎藤助編「拝島村誌」五二頁 拝島村役場 昭和二六年
  二 山崎藤助編 三六頁 昭和町役場 昭和二十四年