二 市制の実施

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 当時、市制を施行するには
  1 人口が三万以上であること
  2 中心の市街地を形成している区域内にある戸数が、全戸数の六割以上であること
  3 商工業その他の都市的業態に従事する者、およびその者と同一世帯に属する者の数が、全人口の六割以上であること
などが主な要件とされていた。この要件のうち連たん戸数・都市的業態の要件は充たしていたが、人口基準に達していなかった昭和町は、早くから拝島村との合併によって市制を施行する構想を持っていたようである。それが促進法の施行を機に急速に具体化した。
 昭和二九(一九五四)年三月一六日、昭和町議会は拝島村と合併して市制を施行することを決定し、昭和町の両町村合併市制施行の方針は固まった。翌一七日、昭和町は拝島村へ合併の正式申入れをおこなった。昭和町の申入れを受けた拝島村では、同じころ福生町からも同様の申入れがあったので、合併特別委員会を設置して村の方針を決定することになった。その結果、拝島村は昭和・拝島・福生の三町村で合併することを決定し、二月二二日、福生町へその旨を申入れた。しかし、福生町は三町村の合併には難色をしめし、拝島村は改めて方針を検討し直すこととなった。
 二月二六日拝島村議会は、同じ北多摩郡に属すること、かつて組合村をつくっていたこと、登記所等の関係官庁も同じであること、組合病院経営にともに加わっていることなどの理由にもとづき、昭和町との合併を決定し、三月一日そのむねを昭和町に回答した。
 こうして、きわめて短期間のうちに昭和町と拝島村との合併は同意をみるにいたった。そして三月三日、両町村は初の合同委員会を開き、市の名称、市制施行予定日、対等合併であること、町村合併促進協議会の設置などについて協議し、市制施行への活動に入った。
 ついで三月七日~一〇日にかけ、住民の同意をえるため説明会や座談会が開かれた。住民のなかには両町村の合併をあやぶみ、立川市との合併を強く主張する意見もあった。
 三月一三日、昭和町議会は合併による昭島市制を可決し、翌一四日拝島村議会もそれにならった。
 両議会の決議にもとづき、三月一五日市設置の申請書が東京都に提出され、昭和町・拝島村合併促進協議会は市制施行の具体的作業に着手することとなった。かくて昭和二九(一九五四)年五月一日、待望の市制が実現し、昭島市は東京都の第七番目の都市として誕生した。東京都に提出した申請書のうち「昭島市を置くの理由」では、当時の市の現況を次のように報じている。
  人口は昭和町六一〇六世帯、二六一一三人、拝島村一八八五世帯、八七九九人、これを綜合すれば実に七九九一世帯、人口三四九一二人の多きを算え、次に都市的形態については市街の連たん戸数は両町村を併せて次の数三八〇六戸、全戸数の六七・七%に都市的生業人口は二五六五五人、総人口の七三・五%に出る。更に区域内都市的施設は、国家警察昭和地区署を始めとして官公署九を擁し、学校教育法に規定する高等学校二、中学校三、等の教育施設及び綜合運動場こども遊園地等文化施設は整備されており、国鉄青梅線、同八高線、同五日市線、立川バス、五王バス、西武バス等交通網も整備されている。(後略)
                                       (市役所文書)

第1表 昭和市の人口推移

 なお、昭島市の市名は、両町村の恒久的和合と団結および合併により一となることを記念して昭和町の「昭」と拝島村の「島」をとり昭島(あきしま)と名付けられたものである。