三 住宅産業都市としての発展

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 昭島市の人口は戦後から上昇の一途をたどっているが、とくに昭和三五(一九六〇)年ころからの増加はいちぢるしく、都市化の様相が急速に進行したことを示している。この頃から市内各所には公営住宅の建設が進み
 拝島住宅       二三三戸  昭和三四年 都営東中神アパート  三九〇戸   昭和四三年
 中神住宅       四〇四戸  〃〃三七年 〃〃拝島団地     一〇三三戸  〃〃〃〃〃
 都営中神アパート   七〇一戸  〃〃四三年 東中神市街地住宅   六九二戸   〃〃〃〃〃
などの住宅団地が、一般住宅とともにつぎつぎに生れてきた。
 こうしたベットタウン化にともなう通勤者急増のため、昭和三四(一九五九)年には拝島駅から東京駅までの直通電車が運行を始め、同四三(一九六八)年には西武鉄道拝島線が開通し、交通網はさらに拡大してきた。また昭和三五(一九六〇)年には電話が自動化となり、同四三(一九六八)年からの水道拡張とともに、生活上の便利化は増大した。
 大東京のベットタウンとしての昭島は、同時に産業都市としての一面も持っている。昭和三二(一九五七)年、市は「昭島市工場設置奨励に関する条例」を制定し、積極的な工場誘致に乗りだした。そして、武蔵野・三鷹などの工業地帯に近く、広い工地を得られるという立地条件とあいまって、市の企業誘致は順調に進んでいる。
 それらの工場の多くは、昭和三〇(一九五五)年頃からの、工業ブームが市におよんだもので、企業拡散の波のなかで、都心近くの区や市から移動してきたものであった。しかも工場の主体は機械部門で、本市の工業は全体的に高度化をとげつつあるといえる。

第2表 昭島市の工場数の推移


第3表 産業別工場数