跋文

633 ~ 638
 昭島市史本編は通史編として、始原時代から現代に至る昭島市史を概説したが、この附編においては、これを「民俗編」と「史料編」との二編に分けて、編成をした。こうした編成をしたわけは、一つには本編の分量が予想以上に増加し、一冊にまとめて製本するには困難が生じたため、当初史料編のみを附編とするという構想を改めて、本編の第九編として、「昭島市の民俗」という表題でまとめられていた原稿を、そのまま附編に移し、製本上の不都合を解消しようとしたことにもよるが、ただそれだけの理由ではなく、「民俗編」を、本編の通史編から切りはなすことは、また別な学問的な理由もあったので、こういう方法をとったのである。
 その学問的理由というのは、およそ次のような点にある。民俗編で扱っている昭島市の民俗というのは、広い意味での、記録せられざる文化-伝承文化を対象としたものである。この伝承文化の研究を果たすのが民俗学 fork-lore であり、民俗学は、民族学 Ethnology が多民族の科学であるのと異なり、単民族の科学として、多くの場合、自民族の研究を主対象とする学問で、自民族の民衆の生活、あるいは伝承文化を究明する学問である。すなわち民俗学は、現代文明社会において、比較的文明の恩恵をうけることの少ない、近代文明の著しい浸透をみない、山村・漁村・農村・離島などで生活を営んでいる一般民衆の、日常生活にみられる一切の伝承文化を研究の目的とする科学である。それは今日わずかに伝承によってのみ、今日までその生命を保ってきたところの、物語・歌謡・舞踊・迷信・呪術・慣習・祭式・葬送・儀礼・社会制度・風俗等、一切の常民文化=民俗を蒐集し、分類・綜合することによって、自民族の記録なき史実の再構成を企てる学問である。そこで民俗学は歴史学と同じ、歴史科学の一つであるかというと、それは史学的性格よりも、むしろ非史学的性格の方が強く感じられる学問である。いま歴史学と民俗学との相異点を列挙すると、次表のように比較対照させることができる。

 

 これはきわめて概略的比較ではあるけれども、この表を対比してみても、歴史学と民俗学とでは、本質的な相違があることだけは充分認められよう。しかし両者は密接な関連を有する親縁科学であり、互に援助し合って、人間科学の研究に貢献しなければならないこともまた真実である。
 民俗学の対象は、一般歴史学の対象のように過去という時間領域にあるのではなく、現在の領域にある。その研究材料となるものは、なるほどその起源や成立過程は、過去の領域に属している、史的性格をもつものであるが、それは考古学の対象とする過去の遺物としてあるのではなく、過去の残存物として、現在なお生命を保ち、現代社会の一隅に生命をもちつづけて現代の人びとの生活の上に、なお或程度の機能を有しているものであるから、現在の事実として研究されるべきものなのである。したがって昭島市の民俗として纒められた、この民俗編の記述は、昭島市民の現代生活の中で、いろいろな機能を果たしながら、生きた常民文化として在存している、諸々の文化に関するものであるから、それは通史としての近代史の部分としても、重要な意味をもつものであることは言うまでもない。けれどもそれを通史としての近代編の一章として、そこに加えず、編を改めて独立させたのは、昭島市民の間に残存する伝承文化としての、諸々の民俗は、他の近代史上の史実の如く、明確な絶対年代をもって、近代という時代の社会の中で発生し、展開してきた史実ではなく、その発生は、すでに近世において、少なくとも江戸時代の中期頃に起源を有するものが多くを占め、あるいは更に遡って江戸時代初期、ないしは安土桃山時代から、遠く室町時代にまで、その起源をさかのぼらせる可能性のあるものもある。けれどもそれらはいずれも伝承的存在であって、明確な発生の時期・原因を究明し難く、個々の史実として通史の中に正当に位置せしめ難いものであるから、通史の中に加えることが不可能であるために、民俗編として独立させて扱うのが正しいと判断されたからである。民俗文化を歴史的に系列ずけるためには、記録の中にその文化要素が何等かの形で記述されていた場合に、現在の民俗の起源の相対年代をそれによって比定することができるが、容易にそうした記録に遭遇することができないので、通史の中に織り込んで民俗を記述することが困難である。これが民俗編を独立させて、附編に加えた学問的理由であった。
 歴史学においても、特に民族史の場合のように、自民族の差異性を強調し、自民族の固有の文化の実態を究明する場合には、民族文化の古い型を留めている基層文化の解明はきわめて重要なことであるのは言うまでもない。その意味において、昭島市史の構成にあたり、通史的記述に加えて、民俗的記述を重視したのは当然の帰結である。民俗学が非歴史学的性格を帯びると同時に、他の一面において歴史学的性格をも有しているので、昭島市の常民文化としての、同一民俗文化の横への拡がり-類型的反民俗の地域的分布を考えると共に、その縦へのつながり-歴史的消長の考慮を払うことも重要な意味をもつ。この横軸と縦軸との交錯して織りなす範囲での分布の究明の努力をすることが、今後の昭島市の民俗研究において果さなければならない使命であると思う。
 近年の民俗学の長足の進歩と、この学問への深い関心の気運がたかまり、調査や研究が急速的に進んだ結果、常民文化の資料も尨大化してきた。それらの資料を歴史家も駆使して、個々の民俗の史的消長を考究し、日本民俗史の完成への努力につとめることも必要である。農民・商人・漁民・狩人などの庶民生活の歴史や、民間芸能や、農・山・漁村の社会史・経済史・制度史などの常民文化史、特に近世庶民生活史の研究がますます盛んになりつつある今日、昭島市史の研究においても、民俗学的研究の重要性は一層強化される筈であるから、その研究の基盤を興える目的で、本市史の編さんでも特に民俗学的調査・研究に意を注いだのであった。
 また附編のいま一つの重要な部門として、史料編が加えられているが、これは市史の調査で、現在までにその所在がつきとめられた、主として市内の近世地方(ぢかた)文書の発見数は実に九千点以上に達した。しかしその凡てにわたって調査・解読の上で、それを市史の敍述に活用することは、限られた短時日内での執筆であるため、殆ど不可能であった。調査活動の中間報告としても、漸くすべて調査ずみの文書の目録を作成・刊行するのが精一杯であったから、市史の叙述に際しては、直接密接で重要な史料のみを選択して引用せざるを得なかった。これらの史料はその原文のまま刊行され、研究者の便に供すべきであるが、そのためには尨大な費用と、長い年月を要することであるから、せめて市史本編において、直接引用し、それによって史実を明らかにするのに役立てた、史料だけでも、原文のまま提供して、参考に供した方が親切であろうという判断から、それらの史料をすべて史料編として一括集録することにしたのである。この市史によって、更に昭島市史に興味をいだかれ、一層詳しく研究を志す方々の参考に便する所があったならば、それは編者たちの最も幸とする所である。
 この附編は、以上のような意図・目的のもとに、本編と共に、昭島市史として編集されたものである。附編の調査・執筆・編集に際しては、民俗編は、瀬山健一・水野紀一の両氏が専ら調査にあたり、その結果を整理して纒められたものであるが、その他に調査の準備や、企画などの面をはじめ、フィールドにおいては稲葉薫主査・白川宗昭専門員の協力を得た所多大であった。また祭礼などの民俗写真の撮影には、水野正統氏の協力を得た。特に民俗調査はフィールドにおいて在地の多くの伝承者各位の厚意あるご援助を得たことを銘記しておかなければならないが、特に編さん委員長の松本金次郎氏、副委員長の榎本武氏には、終始並々ならぬご配慮と、ご教示とを与えられたことは、調査員らが最も感謝している所である。
 また史料編は、特に近世文書の調査・撰択などにあたった、杉仁・紙屋敦之・湯浅隆・保坂智の四氏によって纒められ、編集に際しては、稲葉主査と白川専門員が参加して、統一編成のことに当たった。これらの史料の調査に際しても、在地の文書所蔵家の方々には、何回も調査員たちが訪問して、調査をさせて頂いて、多大のご迷惑をおかけしたのであるが、何程の支障もなく心よく調査にご協力をいただけたことは、まことにわれわれにとって有難いことであり、そのご厚志を重ねて深謝する次第である。
 以上、いささか附編の編集の、経緯をのべ、跋文とする。
  昭和五十三年九月一日
                                       昭島市史監修者 水野祐