第一節 旧村時代の昭島

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日吉神社祭礼囃子


水の講のお日待(中神・宮沢両町)

 今日の昭島市の前身は、郷地・福島・築地・中神・宮沢・大神・上川原・田中・拝島の九つの村落であった。これらの村落は、近世における江戸幕府の支配体制下で、行政的にも社会的にも、それぞれが独立した〝ムラ〟を形成し、それぞれ独立的な村落生活を営んできたものであった。そして明治維新以来、数度にわたる行政区画の変遷の中で、九村落が統合され、また分裂したりの紆余曲折を経て、昭和二九年に市制施行の運びとなったのである。
 即ち、これら伝統的な九村落は、明治維新の廃藩置県に伴って、品川県或いは韮山県に属入されたのだが、明治四年には神奈川県に属入されることとなった。そして同一一年には、北多摩郡役所の管轄に入り、続いて同一七年には立川村及び昭島の前身である前述の九ケ村が合併し、自治行政体としては変則的な形である、立川及西部一〇ケ村組合村が成立することとなった。しかし同二二年の町村制施行により、立川村がその組合村より分離独立したので、この組織体は九ケ村組合村として存続することとなった。その後明治三五年には、二年前の拝島村における悪疫流行の事件が動機となって、拝島村は九ケ村組合から脱退することとなり、同村は以後市制施行まで独立村として、単独で村落を形成、運営してゆくこととなったのである。拝島村の脱退後、他の八ケ村は、八ケ村組合村としてその組織を維持し、昭和三年それらを合併して昭和村が生まれた。そして昭和一二年には、養蚕業の発達や軍需工場の誘致設立などの経済成長と、それに伴う人口の急増によって、町制施行へと向い、同一六年一月一日昭和町が成立した。
 このような昭島市域における度重なる行政区画の変遷、とりわけ経済的成長とそれに伴う人口急増を背景とした昭和以降の町制、市制施行への移り変わりは、それらが単なる行政上の変革を意味するに止まらず、各々が独立的な村落生活を営んできたそれまでの旧村落の伝統的な姿の変貌をも象徴しているものと言えよう。
 本民俗編では、次節で取りあげる諸種の村落組織をはじめとして、生業、年中行事、民間信仰、祭礼行事など、旧村落時代以来昭島市域において受け継がれてきた伝統的民俗文化を、諸側面から取り扱ってゆくのであるが、そのまえに先ず本節では、それらの伝統的な民俗文化を生み、育んできた母胎、土壌とも言うべき旧村時代の各村落の様相について、その概略を述べておくことにする。
 江戸時代徳川幕府の命を受けて編纂され、文政一一(一八二八)年に完成した、武蔵国の地誌である『新編武蔵風土記稿』の、「巻之百十九」多摩郡之三十一・拝島領の条には、拝島村をはじめとする市域の九つの旧村の当時の姿が、断片的ではあるが記述されている。それらの各村に関する記載のうち、村落の規模、民家の戸数、地勢、土性、土地利用、生業といった点に関するものを部分的に抽きだし、引用して参考に供しよう(註一)。
(一) 拝島村。「…江戸日本橋より行程十一里、民家二百軒あまり、東西の宿に連住せり、…西を上とし東を下とす、地形平夷にして多摩川に臨めり、水田陸田相半して、土性黒土にて粗薄なり、…東西二十五町南北一里ばかり、…村民耕作の餘業には蚕桑紡織もては産の資とし、又鮎漁の業をなし、江戸へ出てひさげり、因て運上永若干を毎年官に収むといへり…」
(二) 田中村。「…東西纔に三町餘、南北十六町に及ぶ、土性真土或は砂利交り、水田少く陸田多し、…家数三十四軒、平地に散住す、」
(三) 大神村。「…東西五町、南北八町、村内自ら上下の二區を分ち唱となす、西を上といひ東を下とす、…土性砂利真土或は野土、水田少く陸田多し、民家六十三軒、田地より少しく高き丘上の所に散住す、…」
(四) 宮沢村。「…東西僅に三町許、南北凡十丁餘、土性真土、砂川村境は野土なり、水田多く陸田少し、…民家五十軒、…」
(五) 中神村。「…東西凡九町餘、南北二十二町許、土性真土砂利或は野土、水田少く陸田多し、…民家九十一軒、…」
(六) 上川原村。「…東西五丁餘、南北六丁許、土性野土、陸田のみにて水田なし、…家数二十九軒、…」
(七) 築地村。「…東西僅に二丁餘、南北三丁、田畠等分、土性水田は砂利真土、其他は野土、民家二十一軒、平地に散住す、耕作の外多摩川に出て漁猟をなして生業の資とす、…」
(八) 福島村。「…東西四丁餘南北三丁餘の小村なれど、民家凡七十軒あり、土性真土或は野土、水田少く陸田多し…」
(九) 郷地村。「…東西三町餘、南北二町餘の小村なり、家数三十五軒丘地に散住す、土性水田真土、陸田は野土、陸田多く水田少し、…」
 以上の如き『新編武蔵風土記稿』に見る各村落の概略的な様相は、明治・大正時代を通して、戸数の増加や耕地の拡大といった面で、多少の相違はあるものの、全般的には大きな変化は見られなかった。そうした江戸-大正期における各村落の様相に関して、一般的に言える特色は、まず各村落の村域が東西に短く、南北に細長いものであったことである。
 南北に細長く広がる村域にあって、民家の集中する所謂本村地域は、一般的に市域の南寄りの、多摩川の氾濫原より一段小高くなっている多摩川段丘上の地帯であった。この集落の密集する段丘上には、立川より各村を通り、西隣りの熊川・福生両村を経て、青梅や五日市方面へ通ずる「青梅道」(現、奥多摩街道)が東西に走っていた。各村の本村は、この青梅道の両側に、東西に細長く形成されていた(註二)。今日拝島町榎本武家及び中神町長谷川秋広家に所蔵されている明治三七年図師榎本久忠の描いた拝島村及び中神村の村図によると、拝島の集落は、東西に走る旧日光街道沿いの、字多摩辺と字堂の前に、民家が軒を並べて密集し、東西に細長い本村を形成している。その南側の多摩川に至る低地地域である字山王向、字中の下、字花井などの地区は、数本の灌漑用水が多摩川より引かれており、その水利を利用して水田地帯となっている。集落の北側裏手は、字松原や字林の上に至るまでの地域に畑地が広がっており、民家はまったくなく、さらにその北側は、昼猶暗いうっそうとした武蔵野の雑木林の地帯となっていた。その畑地や雑木林を縫うように、村山や砂川にむかう数条の南北に通ずる小道が走っている。
 中神の村落の景観も、榎本久忠の村図によると拝島の場合とほぼ同様で、東西に走る青梅道沿いの、字東通、字南通、字西耕地に民家が集中し、その北側は、畑作地帯が広がり、さらにその北側は雑木林に覆われていた。そして民家の集中する本村の南側は、多摩川べりまで水田地帯となっていた。このような拝島及び中神両村の村落景観が、市域の各旧村にも共通したものであった。
 各村における集落の規模は、『新編武蔵風土記稿』が伝えるところによれば、拝島村が民家数二百軒余りと、他村と比較すると群を抜いているが、これは同村が日光街道の要衝の地として早くから宿場町として人気を集め、活況を呈して発展してきたからに外ならない。それに対し他の村落は、拝島とは性格を異にし、純農村であり、中神村の九一軒を最大として築地村の二一軒に至るまで、ほぼ五〇戸前後の比較的小規模な村落を形成していたのである。
 各村落の村民の生活は、農耕生産をその基調とするものであったが、その農耕も、各村の村域の大半が水利に恵まれぬ武蔵野台地上に拡がっていることから、『新編武蔵風土記稿』の中に、「陸田多く水田少し」といった記載が頻出する如く、陸稲・麦・蕎麦・芋類などを主幹作物とする畑作中心のものであった。また同書中に各村の土壌の性質について、「黒土粗薄」とか「砂利交り」といった記述がなされており、それからも窺い知れる如く、田畑の土質も決して良好なものであった訳でもなく、そうした恵まれぬ不利な条件の下で、畑作中心の農耕生活が営まれてきたのであった。
 しかるに、明治以降関東一円の畑作地帯で、養蚕業が盛んになるに至り、市域の各村落でも年々現金収入が得られる養蚕業を志す農家が次第に増加して行き、養蚕が生計活動の中心的地位を占めることになり、伝統的な畑作農耕生活も大きな変貌を遂げることとなった。とくに明治後期から大正時代を通しての時期は、養蚕業の最盛期とも言える時期であり、各村落において全村を挙げて養蚕に打ち込み、各農家は養蚕に明け暮れし、繭の出来具合に一喜一憂する日々を送り、その繭を出荷して得た現金収入は、各農家の家庭経済を十二分に潤し、各村落はかつてなかった程の活況を呈することとなったのであった。
 こうした養蚕業の盛行に伴い、独立的・閉鎖的な生活を営んでいた伝統的な村落社会は、次第にその様相を変えてゆくこととなった。これら一連の村落生活や社会の変化は、昭島の近代化へのひとつの歩みでもあったのである。
 以上市域における各村の概略的な景観を眺めてきたのであるが、次節以降において、それら各旧村における伝統的な民俗文化を、社会的・経済的・宗教的といった諸側面を通して具体的にながめてゆくことにしよう。
 
 註補
  一 蘆田伊人編「新編武蔵風土記稿 第六巻」(『大日本地誌大系12』雄山閣。昭五二年。)による。
  二 拝島の本村は、埼玉県入間郡方面より八王子へ抜ける日光街道(現、国道一六号線)が村内を東西に走っている。