一 講中

12 ~ 20 / 241ページ
 旧村時代の昭島においては、各村ごとに地縁集団としての「コウジュウ(講中)」と称される組織が編成されていた(註一)。この講中の組織は、民俗学で言う『村組』に該当するものである。『村組』を構成する社会単位は、一村全体である場合もあるが、通常は一村がさらに幾つかの地縁的小集団に細分されていて、それらの各々の小集団が、その単位となっている場合が多い。また村組の名称は、組(クミ)・垣外(カイト)・地下(ジゲ)など、地方によってさまざまであるが、昭島市域に共通している「コウジュウ」という名称は、とくに南多摩や北多摩地方において一般的なものであるようだ(註二)。
 ところで昭島市域に見られる講中であるが、それらは通例に洩れず、かつての各村落を三-四つの小区域に分け、それら一区一区をその構成単位としているものであった。
 例えば、拝島村(現・拝島町)では、「本村」を形成していた字多摩辺及び字堂の前は、上宿(カミジュク)・中宿(ナカジュク)・下宿(シモジュク)の三区域に分けられており、各宿ごとに講中が組織されている。一方中神村(現・中神町)の場合も、東組(古くからの通称である和田・長塚・林・東上の四つの地域から成る)・中組(本村)・西組(西上(ニシウエ)・沖中(オキナカ)の二つの小字より成る)の三つの講中が、また福島村(現・福島町)では、原方(ハラガタ)講中・向宿(ムカイジュク)講中・東方(ヒガシカタ)講中・西方(ニシガタ)講中の四つの講中が、それぞれ組織されている。
 その他の各村においても、同様の事例が報告されている。それらの諸事例における講中組織の名称は、中神の例に見る『東・中・西』という呼称か、或いはまた拝島の例に見る『上・中・下』というものかのいずれかである場合が多い。
 これらの講中には村ごとで若干相違はあるが、それぞれ「世話人」とか「旦那衆」とか、或いは「年番(ネンバン)」と称される組織のまとめ役が、二~四名決められている。これらの役職は、講中成員のもちまわりのものであり、一~二年ごとに順番にその役につくことになっていた。講中の集会は、「寄り合い」と称され、例えば中神では、定期的な「寄り合い」は毎年四月に開かれることになっている。現在ではその寄り合いは、町の集会場で行われるが、かつては講中成員の中で、多人数を収容できる家屋を有する者のもとで行われたと言うことである。また拝島の場合は、毎年村の鎮守社の氏子新年会や、九月の祭礼後の集会が、講中の定期的な寄り合いにあてられている(註三)。
 これらの定期的な寄り合いの際に、講中の運営についての話し合いや、「講中勘定」と言われる会計報告等が行われる。
 各講中には、「講中倉(コウジュウグラ)」とか、「膳椀倉(ゼンワングラ)」と称される倉が、必ず一つ設置されており、講中共有の膳や椀・盃などの食器類や、座布団、葬式用の鐘・祭礼道具などの「講中道具」が収納されている。このうち食器や座布団などは、結婚式や葬式といった、個人の屋敷に多人数を集め、一席設けたりする所謂「人寄せ」の際などに、必要に応じて貸し出されることになっていた。その場合、講中道具の貸し賃として、例えば昔は二〇銭(現在は二〇〇円)というように(拝島)、所定の料金を徴収しており、その収入が講中の一切の運営費用にあてられていたのである。従って講中の成員たちから、運営経費として、定期的に集金するというようなことは、通例なかったのである。

中神中組の講中倉


講中倉の鍵(拝島道下講中)

 ところで、これらの各村に見る講中組織は、既に述べた如く、各村落における村民の日常生活の中で、さまざまな相互扶助的な役割を果してきたものである。
 それらさまざまある機能のうちでも、とくに重要なものの一つは、葬式の際の手助けであろう。昭島では葬式を一般に「トムレー(弔い)」と称し、その弔いを滞りなく行うには、講中の協力が是非とも必要であった。
 村に死者がでると、講中仲間のうちで最も新しく弔いを出した家の者一名が、鐘つき番となり、弔いを知らせる「触れ鐘(フレガネ)」を鳴らす。「触れ鐘」は一番鐘・二番鐘・三番鐘と、時間をおいて三度鳴らされるが、このうち二番鐘は「講中鐘(コウジュウーガネ)」とも称され、この鐘を合図に講中仲間が、会葬の場に集合する。そしてその際、講中が担当する役目にあたる者を、仲間内から決めるのである。
 弔いにおける講中の役目のうちで最も重要なのは、墓穴を掘り、棺を担ぐ係である「メドバン(メドは穴を意味する語)」とか「アナバン」と称されるものである。メドバンの役は、通常五名の男により行われる。拝島では、弔いを出す家の者一名(施主)が必ずメド番の一員に加わるのが習わしで、その者が墓穴を掘る場所を指示するという。メド番役になった講中の成員は、出棺に先立って、魔除けの意味から必ず一升酒を携えて墓地に赴き、野良着に着替え、焚火をたいてから墓穴を掘る。掘り終ると、墓穴の番をする一名の者を残して、他の四名が棺を担ぎに戻る。従ってメド番は、墓穴掘りと野辺送りにおける棺担ぎの二つの役目を行うものであるのだ。
 こうしたメド番役は、昭島の場合講中の仲間内での廻り番になっているのが一般的である。福島では、四つの各講中ごとのメド番帳が寺に置いてあり、講中内での不幸があると、その帳面を寺より持ち寄り、それを見てメド番の当番にあたる者を決めた。そしてその都度(即ち弔いのある度ごとに)その時のメド番役になった者の名を記入していた。また中神でも同様に弔い用の講中帳があり、弔い毎に誰がどのような役目をしたかを記入し、それによりメド番などを順に決めていた。だが、メド番の当番にあたった者で、その家に妊婦がいるような場合には、その者はメド番を辞退し、その順番をあとにまわしてもらうのが一般的な習わしであった。

福島西組のメド番帳

 こうしたメド番の他に、野辺送りの際に、「高張り提燈」や「リュータツ(註四)」、「ツジロウ(註五)」を持って、念仏を唱えつつその行列に加わることも講中仲間の役目でもあった。しかし、同じ市域にあっても、福島の場合は、これらの役割は、後述する様に「組合」内の任務となっていたように、各村により若干の相違が見られる。
 以上昭島地域の各地域における、弔いに対する講中の一般的な役割について述べてきたのであるが、これとは別に、中神など幾つかの地域では講中組織が、「無縁講」と称される特別の機能を備えている事例を見ることができる。
 中神の三つの講中は、それぞれ約五〇軒がその構成単位となっており、その講中ごとに無縁講が組織されている。これは弔いの出た場合のみ相互扶助を目的として機能するものであり、江戸時代末期ころから始められたと伝えられるものである。昔は、生活も苦しく、葬式も満足に出せないこともあったため、そうした人のために、講中仲間で、一軒一銭ずつ集金し、その集まった金で、さらし布や棺おけを買う費用にあて、誰もが葬式を出せるようにしようと考えたことから生まれたものだと言われている。この風習は今日でも続けられており、弔いが出ると、その前に弔いを出した家の喪主が、講中仲間の家々を回り、一軒につき一〇円ずつを集金しているということである。
 このようにして不祝儀に対する講中のかかわりあいは極めて密なるものであるが、反対に結婚式などの祝儀の場合は、講中から花輪などを出す程度で、あまり深く関与しない。これは、祝儀への参与は、執行者側の招待によってなされる性格のものであるからと言われている。
 以上の如き冠婚葬祭の場合の他に、かつては道普請や橋架けなどの公共の土木工事も講中の大切な仕事であった。明治時代には、村役場からの通達により、或いは自主的に、村道の砂利まきや修理、橋の構築等の作業を、講中仲間で行っていた。しかし大正時代に入り、青年会の活動が活発になって、それらの作業は、講中の手から青年会の手に委ねられることとなった。また拝島では、そうした際に参加できなかった講中成員から、「デブソク(出不足)」と称し、幾らかの金銭を徴収していたという。
 講中の組織はまた、各村における鎮守社の祭礼やその他の神社行事の際にも、重要な役割を果している。
 「ウブスナサマ(産土様)」とか「ウジガミサマ(氏神様)」と称される各村の守護神を祀る鎮守神社の毎年の祭礼はその社の氏子による村全体の行事であるが、その執行にあたって、氏子達は各講中単位に分かれて参加する。
 例えば中神の鎮守社熊野神社の獅子祭礼の場合には、西組・中組・東組の各講中から、それぞれ四名ずつ「ネンバン(年番)」が出、祭礼の幟旗立て、獅子の舞台造り、獅子宿における獅子の接待など、さまざまな祭礼の準備を行うことになっている。
 また拝島では、鎮守日吉神社の祭礼にあたって、上宿・中宿・下宿の各講中が、順番制でその年の「ネンバン」を務め、年番となった講中が祭礼幟旗立てや燈籠つけにはじまり、榊祭りで使う榊神輿造り等、一切の祭礼準備を行う。そして上宿・中宿・下宿の各講中ごとに囃子連が編成されており、それぞれが流派の異なる祭礼囃子を伝承、祭礼日に同社に奉納している。
 このように講中が祭礼の執行にあたり、その単位として機能している風は、福島・宮沢など市域の他地区でも同様である。
 ところで、旧村落では、榛名講、御岳講、稲荷講、成田講などさまざまな宗教的な講集団が編成されていた。これらの宗教的な講集団もまた、村組組織である講中単位で営まれることが多かったようである。拝島の場合はとくにそれが顕著で、御岳講、天神講、榛名講、秋葉講、稲荷講などの講が、各宿(即ち各講中)ごとに独立的に営まれていた。このうち稲荷講について若干触れておこう。
 前述したとおり、拝島では稲荷講は上宿・中宿・下宿の各講中ごとに行われていた。各宿には、「イナリメン(稲荷面)」と呼ばれる講中共有の田地があった。この稲荷面は、毎年二月初午の日に行われる稲荷講のお日待ちのためのものであり、この田で稲をつくり、それを売ってその費用にあてたものである。田の耕作は、小作人を雇い(上宿では講員でない者五名)、これを行わせていた。秋の穫り入れ後、小作人らは毎年一二月一五日に、収穫米を持ち寄り、米を計量し、俵づめにすることになっていた。これを「米ハカリ」と言っている。そして俵づめにした米を販売し、その収入から小作料を差引いた残金が、二月初午の費用にあてられた。上宿の場合で言うと、稲荷田の面積は、明治~大正期には二反一畝四歩であったが、昭和三年三井の別荘が誘致された際、その代替地として五反六畝に増えたという。上宿に残る明治二五年の「稲荷田小作人米取立帳」によれば、この年の収穫高が一石四斗五合で、売上金額は一一円七一銭四厘であり、田租その他の諸費用の二円四二銭九厘を差引いた九円二八銭五厘が、日待ち費用にあてられた。上宿講中の当時の戸数が六七戸であったので、一戸当ての割当額は、一三銭八厘五毛ということであった。

明治25,6年 拝島上組共有地小作米取立帳

 二月初午の日待ちの宿は、講中成員のもちまわりであった。講員たちは連れ添ってその年の宿に集まり、豊川稲荷の掛け軸のかかった座敷で飲食を共ににし楽しんだ。またこの日待ちの際には、川崎の大師河原教覚院の厄神様である「浜川様」への代参者三名を決める籤引きがある。その代参の費用も稲荷田からの収入により出される。尚稲荷講の費用の余った分は、消防団の運営費にまわされたということである。
 同じ宗教的講集団の運営でも、中神の場合には、榛名講、成田講などの各種の講組織は、村全体のものとして、三つの講中合同の形で組織されていた。例えば榛名講と成田講の場合は、両者は一括して行われ、毎年代参者が六名ずつ送り出され、四月一五日に日待ちが行われることになっていた。代参者は榛名講も成田講も共に、村組である各講中から二名ずつ出ることになっており、講中ごとにその代参者を籤引きで決めた。一度代参になった者は次回の籤引きからはずされた。代参の費用は、各講中ごとに米や麦を集め、それを売った公金でまかなったということである。日待ちは代参者の家を宿として行い、男衆が寄り合い、各講中ごとに成員から米四合ずつを集め、米飯と豆腐、人参などの汁の料理を出して、飲食を共にした。このように中神の場合は、拝島と異なり、宗教的講は、村全体のものとして行われ、村組としての講中組織は、その中での活動単位として機能するという形をとっていたのである。
 以上の如く、昭島における村組組織としての講中は、日常生活におけるさまざまな側面において、互助的協同的な機能を備えていたのである。