四 青年会と処女会

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 昭島市域の旧村では、共通して「ワカイシュナカマ(若衆仲間)」と称される年齢集団が組織されていた。この組織は、明治後期には「青年会」という名称で広く呼ばれるようになり、大正末期から昭和初期には、さらに「青年団」とか「青年クラブ」と改称され、今日に継続されている。
 この年齢集団の活動が、盛んになったのは、大正時代であったと言う。青年会への入会の年齢は、村により若干相違があるが、一五~二〇歳の間である。会からの脱退は、三〇歳になったときといわれ、結婚しても依然入会していた者もいたが、その例は少なく、既婚者は、退会年齢に達する以前に脱退する場合の方が多かったようである。
 青年会は、かつて村組の仕事であった、道普請や、砂利まき、橋梁架け、川さらい、山林の開墾といった公共の仕事を行うことを任務としていた。また、養蚕の盛んであった大正から昭和初期にかけての時期には、畑地を借りて(青年会共有の畑地の場合もあった)桑を植え、養蚕農家に桑葉を売って、その収入を活動資金にあてた。さらに夜は、集会場に会員が集まり、寄附してもらった藁で養蚕具の一つである簇(まぶし)を折り、繩ないをし、それら簇や繩をやはり養蚕農家に売って収入をあげ、活動経費にしていた。
 村の鎮守の祭礼の際にも、青年会は、氏子総代や講中から出る祭礼の年番などの指揮下で、さまざまな準備や神輿担ぎなどの役目を分担していた。
 青年会の若者達は、「ヨアソビ(夜遊び)」と称し、夜駄菓子屋などに集まり、三~四人ずつ連れ合って若い娘のいる家を訪問し、炬燵にあたりながら話をして楽しんだりした。福島では、夜中に川越えをして八王子の粟の巣や石川あたりまで夜遊びに行っていたという。村内での夜遊びは、恥しいからと言って、余り行われなかったともいう。こうした夜遊びは、村と村との交流の一つの機会ともなるものであり、若衆の訪問を受けた家は大そう喜び、菓子や茶を出してもてなしてくれた。しかしこうした夜遊びから、恋愛が芽生え、縁談が決まるという例は余りなかったと言うことである。
 ところで青年会に匹敵する組織として、各村には若い娘達による「処女会」という組織があった。この処女会も、大正から昭和初期にかけての一時期、盛んに活動を行ったものである。その活動は種々あったが、例えば裁縫の講習会を開き、心やすい人達の着物を、糸代だけもらい縫ったり、小学校を使って行われた村の演芸会で、劇や琴の演奏会などを行ったりした(拝島)。また公共的な仕事としては、種痘や腸チフスの予防注射が行われる際、会員が交替で現場に赴き、手伝いをしたりしていた(昭和初年、拝島)。処女会は、以上の如き家事経済に関連した各種の講習会を催したり、公共の仕事をうけもったりして活躍したものであり、村にとって重要な役割を果しており、青年会同様、村費の補助も受け、それを活動資金としていた。
 註補
  一 拝島町、中神町、福島町などの旧本村地域では現在もその組織は存続している。
  二 宮本馨太郎。「日本の民俗・東京」。一一二頁。第一法規。
  三 氏子の新年会及び鎮守祭礼は、拝島の三つの講中が単位となって、各々がその準備執行にあたる形をとっている。鎮守社氏子集団の成員と三つの講中集団の成員とは重複するものであり、鎮守社氏子の行事はまた講中員の行事でもある。
  四 竜の頭部を最上部につけた棒状の葬式道具。野辺送りの際これを棺の四角につける。
  五 ツジロウとは、野辺送りの際に寺の入口や墓地の入口の両側にたてる臘燭立のこと。