第二節 多摩川の伝統漁撈

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 市域の南を流れ、八王子市との市境ともなっている多摩川は、旧村時代以来さまざまな形で市域の村落生活と密接な結びつきをもってきた。
 洪水によって村落が壊滅的被害を受けたことも、各村落の長い歴史を通して幾度かあった。隣接する八王子との交通も、多摩川がその間に横たわっていることが障壁となって、拝島、築地に渡し場が設置されていたことでも知られるように、渡船にたよらねばならなかった不自由さもあった。
 しかしそうした悲劇的或いは障害的な係り合いがあった反面、多摩川は村落生活におけるさまざまな面で、利点を授けてくれる恵みの川でもあった。
 先づ、水利の悪い武蔵野台地上に位置する各村落は、充分とは言えないまでも、多摩川より灌漑用水路を引くことにより、多摩川に面した村落南域の低地部において、水田耕作を営むことができたのである。また大水の出たあとの河原には、上流より流されてきた多くの「カーギ(川木)」即ち流木が散乱し、それらを拾い集めると相当量の焚木或いは木材となったので、村人達は出水後しばしばそれを拾い集めに河原に行ったものだと言う。
 さらに、今日ではその俤は殆んど失われてしまっているが、清澄な流れであった清流多摩川には、天然鮎をはじめとして、ハヤ(ウグイ)、ギバチ、カジカ、ウナギ、ナマズ、サイ、マス等の魚族が群棲しており、村人達は折に触れてそれら魚族を捕獲し、自家の日常の副食物に充てていた。今日では、食糧事情も豊かで、魚貝類や肉類の動物性蛋白質の摂取は、日常的なものとなっているが、食糧事情が極めて質素なものであった戦前においては、動物性蛋白質を摂取する機会は極く限られていた。しかしながら昭島市域には、魚影濃い清流多摩川が流れていたことで、その機会にはまだ恵まれていたと言うことができよう。
 多摩川で捕獲されるアユは、殆んど近隣の鮎料理を食べさせる料亭に出荷されたが、その腸は塩漬けにして〓〓(ウルカ)とし、各家の最上の保存食糧としても利用された。またハヤなどの魚は、一度焼いたあと天日で干して、いつでも食卓に供されるよう保存されたし、さまざまな調理法によって料理され、食膳を賑わしたのである。
 市域において、多摩川を舞台として河川漁業を専業として生計をたてていた者は、全人口からすると極めて少なかったが、それを専業としない農耕を主体としていた村人であっても、農作業の片手間に、レクリエーションをも兼ねて、自家消費分の魚族を多摩川に捕獲しに行っていた者も少なくなかったのである。
 そうした数少ない専業的な漁夫や、一般の村人によって、市域においても数種類の伝統的な漁法が受け継がれてきた。本節では、それらの諸種の伝統的河川漁法について述べてゆくことにする。

モジ(〓)と鮎籠(石川酉之助氏提供)