このモジ漁法の仕掛けは、第1図の如く、数一〇本の藁束を結びつけた、「オカザリ(お飾り)」と称される威嚇用の繩を、川を横切るように水中に張り、その岸に寄った両端部(或いは一方の端部だけの場合もある)に、「モジ網」と称される網と短いオカザリで囲った捕魚部を作ったものである。オカザリの両端は大きな玉石に結びつけておき、流されないように固定しておく。モジ網は、捕魚部の入口に張る網は浮子をつけず、沈子だけのものであり底に沈めておくのであるが、流れに平行して張る方は、浮子沈子の両方がついている網を用いる。
第1図 「モジ」の仕掛け
川を下ってくるアイは、川の中央に張ってあるオカザリに驚いて、その進路を変え、川の両岸即ち捕魚部のある方向へと向って逃げ、捕魚部の中へ誘導される。さらに捕魚部の下手には、浮子のついたモジ網と直角方向に短いオカザリが張られているので、アイは再びそれに驚き、方向を変え上流の方へと逃げようとするが、沈子だけつけた入口部の網が邪魔して捕魚部外へは逃げ出せない。逃げ場を失ったアイは、オカザリと網に沿って泳ぎ、ついには流れに平行して張ってある網の底部に設置されている、鮎筌であるモジの中に頭から潜り込んでしまう。モジは開口部を捕魚部の内側に来るように、捕魚部の外側から網の下をもぐらせるようにして置かれ、その開口部の周囲は、隙間が出来ないように石でびっしりとかこんでおく(第2図)。
第2図 モジのすえつけ図
モジは通常七本ばかり置いておく。最盛期には一つのモジに四~五匹のアイが腹をつけるようにして入っていることもあるという。このモジと称される鮎筌は、他のウナギドーなどの一般的な筌と異なり、「アゴ」が無いのが大きな特徴である。これは、鮎が後づさり出来ない習性をもつからとも、筌から出ようとしても筌の簀子に背鰭や胸鰭がひっかかってしまうからとも言われている。
天然アイの遡上が盛んで、魚影の濃かった大正~昭和初期頃は、市域の多摩川筋に幾つものモジの仕掛けが見られた。モジは漁業協同組合員でなければ行えないものであり、農業を主体に行う村人の中にも組合員の資格を得て、農業の片手間にモジ漁を行い、漁獲された鮎を「アイ屋」と呼ばれる仲買人に売って収入の足しにしていた人達もあったのである。
当時市域ではアイ屋は二軒ばかりあり、集めたアイをきれいにアイ篭に並べ、それを立川や府中の鮎料理を食べさせる料亭に仕出ししていた。そのアイ屋の一人であった福島町の石川酉之助氏の話によれば、養蚕の盛んであった頃は、せっかくモジの仕掛けを作っても、その所有者が蚕の世話で忙しくなる時期には、鮎を取り上げに行く暇もなかったので、代わりに石川氏が各人の作ったモジを一つ一つまわり、モジに入っている鮎を取り上げてまわったと言うことである。アイをモジから取り出すと、その場ですぐ腹を割き、「ウルカ」を取り出し、家から持ってきた塩で塩づけにする。モジの脇には各人のビクが置いてあり、そのビクに付属した竹筒製のウルカ入れに、その塩づけにしたウルカを入れておく。腹を割いたアイは石川氏がそのまま持って行き、料亭に仕出しした。モジの所有者に対しては、夕刻河原のモジの仕掛けのある場所で、竹筒に入れた塩漬けのウルカの数によってその日何匹鮎を取り上げたかが解るから、そのウルカの数をもとにして、鮎の代金を支払ったということである。