中神では次のような方法でこの漁法を行っていたという。
先づ五分ぐらいの目の荒い網(高さは一メートル弱、長さは二五~三五メートル)で、鮎の多くいると思われる瀬を、上流の方から下流の方に半円を描くように張り、鮎を半月形に仕切った水中に閉じ込める。そしてさらに素早く四分・三分と順に目の細かい網で、その外側を二重三重に包囲する。そして次第にその包囲網を狭めて行き鮎をとらえるのである(第3図参照)。この際包囲網の内側の捕魚部の下手にあたるところに一定の広さに木綿製の浮子のつかない白い網を川底に敷く。包囲された鮎は、その白い網をきらって、一方に寄り集まるから、それだけ捕獲しやすくなる訳である。
二重三重に網をはるのは、最初の網で包囲された鮎のうち、その網を抜け出られるものを、さらに目の細かな二番目三番目の網でひっかけて獲えるためである。
第3図 マキアミ
昭和初期の川遊び(榎本武氏提供)
巻き網は、その網目に鮎を刺して捕獲する刺網漁法であるが、最後に包囲内に投網を打って捕獲する場合もある。
この漁法で最も肝心とされるのは、巻き網の浮子と沈子のつけ方である。網は流速に負けずに半円形に広がっていねばならぬから、流速にあわせて浮子や沈子を調節せねばならなかった。また、目の細かな網ほど沈子を重たくする必要があった。
以上の中神におけるマキアミ漁法とほぼ同様の漁法で行われたものが拝島のジビキアミ(地曳網)漁法であった。
この漁法では、先づ目の荒い地曳網で、本瀬を引きまわし、鮎を寄せ集め、それを本瀬のわきに人工的に作った細い水溜りに最後に追いつめて行く。追いつめる間隙に本瀬につながっている入口部におどし用の白い木綿製の網を流す。そして竹を編んだ簀をその入口に立てて、砂利をつみあげて堰をつくり、その後水を干して鮎を捕獲するというものであった。
この漁法は、昭和の初めころまで専門の漁師が、東京や八王子などから来る遊漁客のために良く行っていたものであり、水を干す際にそれらの遊漁客に手掴みで鮎をとらして遊ばせたということである。