四 普段着と仕事着

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 丈夫な木綿が普段着や仕事着の衣料であった。子供の普段着の多くは紺ガスリで男女の柄も大差がなく、男に筒袖、女は元祿袖を着ていた。殆んどが農閑期の母親の夜なべ仕事であったが、古着屋もあり比較的多く利用されていたようである。大人は「ねまきおきまき」の言葉があるように木綿の着物が普段着で、ねまきに共用する人もいたようである。男性は縞の着物に三尺の帯をしめ、女性はじゅばんの上に地味な柄の着物を着ていた。いつもタスキがけで仕事するのでタスキをかける部分がすりきれる程であり、外出する時などのためにもヨソユキをのタスキを用意した。寒い時季には黒い衿のかかった半てんを羽織がわりに着用していた。筒袖で袂が三角になっていて袖口が三~三寸五分位の半てんだが、着やすくて仕事をするのに大変都合がよかった。「ムキミヤハンテン」と呼んでいたが、出掛ける時も羽織がわりにこの半てんを着用していた。多くの人に愛用されていた衣裳の一つである。

昭和初期の野良着姿

 農作業をする男は筒袖、女は長袖と一定していた。男は木綿のめくら縞の紺の股引きに、上半身には「シルシバンテン」を着け、手拭で頬かぶりをした恰好で農作業に従事し、足袋はだしや草履もあったが地下足袋を履く人もいた。女は長い着物で畠の仕事をするのだが、長袖にタスキをかけ、しりっぱしょりでメリンスのお腰を出して農作業をするのが普通であった。古老の一人は「黒いかすりの着物に赤いタスキをかけたお嫁さんはよく似合って風情があった」と述懐されている。頭には手拭をかぶり、ブヨが多かったので長靴下と足袋を履いていた。中にはキャハンをこさえて手足にまく人もいたようであるが、特に、年頃の娘はブヨのあとをいやがるので相当気をつかっていた。履きものは男性同様に足袋はだしやわら草履が使われていたが地下足袋を履く人もいた。
 家内での養蚕の仕事には普段着そのままで、タスキをかけ袖をからめて仕事をした。桑摘みにはしりっぱしょりで仕事をするために、桑のシミがおこしに付着して二、三日汚れがおちないので苦労したようである。
 なお、割烹着やモンペを着用するのは昭和の一〇年代頃からである。
 雨の日の農作業には渋紙の合羽や編笠やミノを着用した。