第二節 食生活

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 現代のように人々が米だけで炊いた御飯を主食とするようになったのは、少くとも第二次世界大戦が進行していた昭和一六年に米穀配給制度が実施されてからであり、それ以前の時代の農家では「モノビ(物日)」などの生活年中行事の折り目の日でなければ米だけの御飯を食べることがなかった。米は現金収入のための貴重な穀物であることから、平素の主食は麦や粟などの雑穀類に質の悪い米を少量入れた御飯が普通であった。
 市内で生活を営んでいた農家の多くはこれと同様の食生活であった。元来、この地域は水利の悪い武蔵野台地上に位置しているために、水田稲作には不適な土地柄なのであるが、人々は多摩川沿いの低地を開発してここに水田を拓いた。『拝島村誌』によれば、明治三五年の耕地面積は田四〇一反、畑一五六二反であり、大正元年は田二三五反・畑一五三〇反と記されているように、拝島村だけの記録ではあるが水田の耕地面積が比較的狭量である。したがって、農耕作業は麦・陸稲・大豆・甘藷などの栽培を中心とする畑作主体の農業であり、特に、貴重な換金作物である米=陸稲の栽培に力を入れていた。それだけに米は貴重な穀物であり、日常の生活では米だけの御飯を食べることがなかったのである。
 本節では明治から大正にかけての市内住民の食生活について、古老の方々の話を素材にして、特に、年中行事と関連づけて食べ物についてまとめてみた。

野良仕事,稲こき(川島新作氏画)