副食のことを「オカズ・ソウザイ」といっていたが、野菜の煮つけが主体であった。養蚕の仕事が一段落した四月頃から播種が始まり、各農家では甘藷、馬鈴薯、里芋などの芋類やキュウリ、ナス、ゴボウ、ネギ、大根、カボチャ、人参インゲン豆などを栽培していたので、自家製の野菜をソウザイにあてていた。しかし、冬季には収穫がないので穴を掘って貯蔵していた。中でも大根は切り干しにすれば用途が多いので、ソウザイの主な一つとなっていた。大正二、三、四年の榎本亀太郎氏の『農事日誌』をみても甘藷と同様に大根についての記事が比較的多く記されている(昭島市史資料編 民俗資料としての『農事日記』)。切り干し大根は他の野菜といっしょに煮つけたり、油あげを入れることもある。タクワン漬を塩出しして油でいためて食べることもあった。野菜類は煮つけだけでなく酢の物やおひたしに、また、汁もののみにも使った。キャベツを玉菜、トマトを気ちがいナスと呼んでいたように生野菜は余り食べていなかったようである。
なお、切り干大根を煮つけてお寿司のカンピョウのかわりに使っていたが美味しいものであった。
油あげやヒリュウズ(がんもどき)もソウザイとして食膳にのったし、豆腐もモノビなどの日には欠かせないソウザイの一つであった。自家で製造するのではなく村の豆腐屋にミソコシを持って買いに行くか行商人が来た。卵は食べるよりも売ることが多く、時々は食べることもあった。
また「四ツ足は食べるものではない」といわれていたように、日常のソウザイとしても殆んど食べなかった。
生きの良い魚は立川あたりまで買いに行かなければならなかったので、生ものとは縁遠く塩ザケや目ざしが主であり、身欠ニシン、塩サバもよくソウザイとなった。多くは八王子方面からひき売りにくる行商人を利用していた。多摩川や川沿いの水田にいるアユ、ハヤ、フナ、ドジョウ、エビや小魚をとって食膳にのせたり、つくだ煮にしたりした。行商人から買ったマスを大きな鍋で煮て毎日食べたこともある。アユを手づかみでとらえた時もあったようだが、沢山とれた時は竹に剌して「イロリ・ヒジロ」の遠火で焼き、台所の軒のわらにさして貯わえておく、火に培るともどるので、それに砂糖ミソをつけて食べた。その他、アユは酢のものや塩焼き、魚団子にして食べるが、はらわたの塩漬けは「ウルカ」といって美味しく、また腹薬でもあった。また、これをミソで煮ることもした。「アユノニビタシ」も上等な味で、ソバのタレに入れると一段と味が良くなる。