一 屋敷構え

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 農家は農耕作業の関係から広い前庭をもつ必要があり、百坪~三百坪程度の比較的規模の大きい敷地をもち、南面の土地を選ぶのが普通であった。屋敷の周囲には防風火のためにケヤキ・カシ・杉・松・竹・サワラ・カナメなどを植え屋敷の区画としている。屋敷内は居宅のオモヤを中軸にして、土蔵・物置小屋・木小屋・蚕室・厠屋・風呂・井戸・屋敷神などが散在している。図は中神村で名主をつとめていた長谷川家の家屋配置図で、明治一七年に記されたものを基にした図である。その後、大正一二年の関東大震災の際に土蔵が倒壊したので建物の配置がかわっている。しかし、建物の位置について、キモン(鬼門)の俗信があり、丑寅の方角(北東)には便所、風呂のような不浄な建物は禁忌とされているので、建物の新設についても充分この鬼門の俗信が配慮されている。中神では牛・馬・豚を飼育していなかったので家畜小屋がなかった。また、醤油・味噌などを貯蔵する味噌蔵もないのが普通であった。

第1図 長谷川家の屋敷構え

 一般の農家には門構えはなかったが、名主をつとめた家には長屋門といって、普通の長屋の中央を開いて門にしたもので、両側の部屋を作業場や物置として使用していた門構えをもつ家もあった。
 屋敷内に入る道を「ジョウグチ」などといった。「オモヤ」は東西に構えるのが普通で、庭に南面して日当りが良く、住生活の中心となっているが、間取り等については後述する。
 殆んどの農家には間口二間、奥行き四間程度で、火を防ぐために四面を土やシックイで塗った土蔵があり、家財道具を収納するために使用していた。
 物置小屋はオモヤに離れている場所がえらばれ、日常使用する農耕用具や穀物類が収納されていた。また、マキやソダの燃料を貯蔵しておくためにオモヤの裏側のお勝手に近い所に木小屋が建っていた。
 市内では明治末から大正期にかけて、農家の仕事が養蚕中心となっていたので、庭に木造二階建の南北の風通しを考慮に入れた蚕室が建てられていた。
 風呂は外風呂と内風呂があるが、木の桶が普通で、スノコの下には溜があり、使った湯をタメておき、堆肥づくりのためにこれを利用した。外に風呂のある場合は便所と一緒に造くられていた。
 井戸はタテ井戸が殆んどで、屋敷内の巽の方角(東南)を掘ると良いという俗信があり、たいていの農家では東南に位置している。四本の柱をたて、井戸の上には井戸ヤカタと呼ばれる屋根があり、水神様をお祀りしていた。井戸の水はツルベで汲み上げるツルベ井戸で、ハネツルベを使用したこともあったが、滑車を用いたツルベにかわった。水はお勝手の水ガメに溜めて飲料や洗いものに使うので、農家の人達にとっては水汲みが大きな仕事の一つとなっていた。手押しポンプで水を汲めるようになってからは大変楽になった。なお、水道が全市内に普及するようになったのは昭和三十年末から四十年にかけてからである。

ツルベ井戸(小川直次郎宅)