二 居宅

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 オモヤと呼ばれているように屋敷内の中心の建物で、日当りを考慮して東西に長く南面しているのが普通であり、土間と板敷きと座敷の部分で構成されている。入口は「トンボグチ」といわれ、一間幅の大戸がつけられている。この大戸には小さな戸がついていて夜間などの出入口としていた。
 入口のすぐの所が広い面積をもった土間になっていて、雨天の農作業の場であり、また、蚕のための桑置場、麦の棒打ち、農作物の収納、餅つきの場として使用されていた。
 土間の北側の奥には土で作ったカマドが設けられていて、「ヘッツイ」などと呼んでいたがここで日常生活の煮炊きをした。多くの家ではこのカマドの上に簡素な神棚をつくり、また、カマドの傍の荒神柱などに火の神の荒神様を祀るのが普通であった。
 土間の北側には板敷きの「コエン」をへだてて、板敷きの床のイロリ・ヒジロの間(カッテ)があり、中央に四尺四方の炉があり、常時火を絶やさないようにしていた。食事をする時も、お茶を飲む時もこのヒジロの周囲に家族が集る一家団欒の貴重ないこいの場であった。ヒジロを使って煮炊きもするので、天井から「オカマサマ」といわれる自在鈎が下げられていて、鍋や鉄びんをかけておいた。自在鈎は太い竹の筒と木を魚の形に彫ったものでつくられていた。
 ヒジロの囲りにはゴサ・ウスベリ・ガマでつくった敷ものがあり、主人は東向きに坐るのが通例で、その座を横座といい他の家族は遠慮していた。家族はそれぞれが一定した場所に坐り、お客の坐る所も一定していた。お勝手に近い方が主婦の座であった。
 なお、ヒジロの燃料には桑の木やソダが用いられた。
 ヒジロの奥に台所があり、水がめが置かれ、水流しといわれる洗場や米びつ・味噌・醤油・塩・漬物類などを置いておく戸棚があった。
 土間と座敷の境にはコエンがあって、家人と客人はここに坐って対話することがよくあった。この境いにある太い柱が大黒柱で他に小黒柱などと呼ばれている柱もある。大黒柱(メオト柱と称す)の位置は家によって異るが、多くは土間と座敷の境の中央に立てられ、ケヤキなどが使われていた。
 座敷は一般的に四つの間からなる田の字型の間取りで、各部屋は障紙やふすまで仕きられ、祝儀、不祝儀の人寄せにはこれをとりはずして広間として使用できるようになっていた。それぞれ天井があり、「ザシキ」・「ツギノマ」・「オクザシキ」・「ナンド」と呼んでいた。
 ザシキは上り口の部屋で「デイ」と呼ぶところもあるが、普通は八畳~一二畳程度の広さで、、客間の一部として使用されていた。夜は家族の寝室ともなるが、この部屋に神棚や仏檀が設けられているのが普通であった。
 ザシキにつづいてまた八畳~一二畳の部屋があり、ツギノマと呼んでいる。ここは正式の客間である。その北側に六畳~八畳程度のオクノ間があるが、ここも正式の客間で、床の間や「チガイ棚」が設けられている。普段は殆んど使用することがないが、客が泊る場合にはこの部屋が使われた。
 多くの農家ではタンスなどの家具類や客ぶとんなどは普段余り使用しないので、土蔵に収納しておくのが普通であり、各部屋はガランとしていた。
 各部屋の灯火は明治時代の末頃にはランプを使用するようになったが、それ以前は行灯やローソクを用いていた。農家が電気を使うようになったのは大正一〇年代以降になってからである。
 以上が田の字型、四間取りの母屋の座敷であるが、これが農家の基本的な型であった。各家ではこの型に手を加えて居宅としていたのである。
 前頁の図は中神の長谷川家の間取り図で、田の字型を基本としている。江戸時代末期に建築され何度か手が加わえられているようだ。また、大黒柱はケヤキの一木を二つに割って使用しているが、二本ともチョウナの荒削りの柱である。

第2図 長谷川家の間取図

 ザシキとツギノマの南面に外縁がつけられ、西側に内縁があり、北西に厠が二つあるなど少々ぜい沢につくられている。仏檀はナンドに設けられているが、神棚はザシキのナンドよりの戸棚の上にある。また、風呂は内にあり、土間の東側の隅につくられているが、下には溜があって湯を溜めていた。