妊娠五ケ月の戌の日に妊婦の腹に帯を巻き、妊娠のお祝いと安産を祈念して帯祝いをする。犬は一度に沢山の子を産んでもお産が軽いので、それにあやかるようにと戌の日を選んだとされているが、この腹帯を岩田帯と呼んでいる。この日は嫁方の実家から腹帯用の紅白のサラシ布と麻がとどけられ、その他、鰹節やスルメなどをお祝いの品として持参するのが普通で、当家では赤飯を炊いてお祝いをした。
なお、神社から受けてきた安産のお守りを帯の間に入れておく人もあった。
中神の古老の話によれば、安産を祈念する水天宮様がこの地域になかったので、東光寺(日野市)の薬師様が御利益があるというので参詣した。中には砂川(立川市)の水天宮様まで参詣に行く人もいたそうである。
多くの妊婦は出産直前まで一人前に働くのが普通であったが、過激な仕事はさけるようにとか、高い所に手を上げて物をとってはいけないなどといわれていた。また、安産を願うために妊婦にはいろいろな禁忌があった。
○良く体を動かしているとお産が軽い。
○豆腐を食べると骨のない子ができる。
○コンニャクを食べるとグニャグニャした子が生まれる。
○白いものを食べると白子が生まれる。
○火事を見ると赤いアザのある子が生まれる。
○体が冷えるから柿は食べてはいけない。
○妊婦のいる家は葬式の穴番をしない。
妊娠中の食事は他の家族と同じ内容のものを食べていたが白いものは遠慮するのが普通であった。出産直前まで休むことなく炊事の仕事をしたが、妊娠しているということで、特別に火を区別することもなく、家族の人達の食事をつくる火といっしょであった。
出産はほとんどが実家に帰らず嫁入り先きでするのが普通であったが、特に、そのために産屋を建てるようなことはなかった。多くの家では産室には奥の部屋があてられ、床の間つきの家であればその部屋や上座の部屋がそれにあてられた。中には納戸を産室にする家もあった。出産の時は畳が汚れるので畳をあげるか、裏返しにした。
出産の時がくると経験をつんだ「とりあげ婆さん」に頼むが、昭和の一〇年代ぐらいから村に産婆がいるようになりこの人に任せていた。産婆は後に助産婦と呼ばれるようになった。中には里の母親が手伝いに来る家もあったようである。
陣痛が始まると「とりあげ婆さん」の手を借りて出産するのだが、へその緒を切るのに竹のヘラを使用していた。へその緒の両端を麻で結び、刃のついた竹のヘラを上手に使って切り、その竹ベラは屋根裏にさしておくのが通例であった。切ったヘソの緒は乾燥させてから麻紐でしばり、氏名、生年月日を記して保存しておいた。当人が急病にかかった時には、このヘソの緒を刻んで煎じて飲ませると特別な効果があるといわれていた。胎児を包んだ膜と胎盤を「エナ(胞衣)」というが、これをカメに入れて屋敷内の縁の下や土間などの方位の良い場所を選んで埋めた。時には方位上の関係から門の所に埋める場合もあった。カメに入れない時は麻でしばっていけるのが普通であった。昭和に入ってからは八王子方面からエナ屋が来るようになり、この風習もみられなくなった。
生まれた赤子の産湯は姑がとりあげ婆さんの役目で、タライは木の新しいのを使ったが、家によっては木のタライは二、三〇年使用に耐えるので古いのを使うこともあった。
産婦は二、三日の間は休養をとり寝ているが、出産の頃に実家から届けられている米、鰹節などで粥をつくってもらった。食事は一回に沢山食べてはいけないといわれ、五回ぐらいにして食べていた。鰹節と麩の煮つけという軽いソウザイに味噌汁とオシンコウが普通で、サケ(鮭)は血をあらす、油はいけないというのでとらなかった。
なお、産婦は出産後も「チブク(血脈)」がかかるということで、赤子のお宮詣りが済むまでは公の外出やお宮詣りをしなかった。また、家の内の神棚もさわらなかった。
なお、産後の休養後に初めて家事をする時、特に、カマドに火を入れる時は塩花をまいてから始めるのが一般的であった。