離婚の原因は現代のように性格不一致を理由にすることはなく、一〇年程経過しても子供ができないというような理由によるものが多かった。婚姻が家と家との結びつきであり、離婚というより離縁の言葉が似合しく、多くは婿の親と仲人、嫁の仲人とが話しあって解決するのが通例であった。
因みに、大正時代中頃の拝島村における結婚、離婚の数は左表の通りである。
大正七年 大正八年 大正九年
男 一〇一五人 一九四一人 一〇六二人
人口 女 九六九人 一〇一六人 一〇二五人
婚姻数 三〇件 三六件 三〇件
離婚数 二件 五件 一件
(『拝島村役場会議録』)