A 榛名講

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 群馬県の沼田に鎮座する榛名神社は倭建命を祭神としているが、雹、嵐除けに御利益があるといわれ、多くの人々の信仰を受け、各地に榛名講が組織されていた。市内の各地域にも榛名講が組織されていて、毎年四月の上旬に代参者を交替でおくっていた。中神では明治三十七年四月拾五日付の『榛名山・御嶽山代参人名簿』(長谷川家文書)が遺されており、それによれば、東、中、西の各組の村民の殆んどが参加していたことが記され、百数人の名前が挙げられている。代参人はカンジンヨリのクジによって決めていたようで、毎年四名づつが選ばれ、一度代参した人は除外されていた。名簿の上には何年何月代参済と記しておくのが通例であった。代参人の旅費やお札の代金などの費用は講の各家に割当てて米、麦を徴収し、これを換金して当てていた。
 講社代参人ハ毎年十二月玄米
 壱升ヅツ収メ其内五円を御嶽山
 代参人に分配スル事
 残金ノ部ヲ榛名山代参人ニ分配スル事             (長谷川家文書)

榛名山代参帳と納付金領収証

 以上のように、中神では古い時代から榛名講が続けられていたようで、昭和七年までの記録が遺されている。
 四月一五日がお日待ちの日なので、それに間にあうようにと、四月三日~一〇日迄の間に代参をすませていた。朝出立して御師の家へ一泊して翌日参詣するのが通例で、明治三二年四月付の『榛名山代参帳』(長谷川家文書)によれば、明治三二年~三九年にはお札料として二五銭、明治四〇年~明治四五年には壱円を納めている。御札料を納めお札を受けてくるのだが、立札二枚、大札二枚、嵐除け百三〇枚と毎年定まっていたようである。他に食事代等の賄料を納めている。
 信仰とレクリエーションをかねた代参なので、中には御師の家に世話にならずに、伊香保温泉に泊る人もあったようで、また、一泊だけではなく、良い機会というので妙義山にまわって二泊して帰る代参人もあった。帰宅後にもらい受けてきたお札を各家に配布するのが通例で、各家ではこのお札を神棚に供えた。そして、四月一五日にお日待ちをした。
 昭和四已年四月一五日付の『榛名山、御嶽山日待費乃人名簿』(長谷川家文書)によれば、この年は志野徳三郎(篠徳三郎)方が宿となっており、一三一名が参加し、一人当り二五銭のお日待ち費用を徴収している。御神酒、上白米壱俵、豆腐、こんにゃくなどの支出明細が記されているが、代参人の土産話を肴にして親睦の場としてのお日待ちを楽しんでいたのであろう。なお、出費明細には竹、西のうち、麻、半紙などの品などが書かれているが、床の間に榛名山から受けてきた大札を掛け祭壇のようなものをつくっていたと思われる。

昭和4年榛名山・御岳山日待費乃人名簿

 また、この講には代参人が卵を食べると雹が降るといわれ、禁忌とされていた。ある古老は試みに卵を食べてみたら、代参後本当に雹が降ったと語っていた。
 中神の例をあげて榛名講をみてきたが、他の地域でも同様な内容をもった榛名講が存在していた。拝島ではこの講が明治時代の中頃にすたれてしまっている。