拝島では中宿、下宿に御嶽講があり、四月に代参者をおくりお札を受けてきていたが、明治時代の末頃から代参がなくなり、それに代って春になると御嶽神社の御師がお札をもって回ってくるようになった。戦後になってからは一一月の中頃に農協の主催で御嶽山への参詣が企画され、百人~百五〇人の団体で参詣するようになっている。御嶽講としては早い時代にすたれていたようである。
中神では榛名講の組織がそのまま御嶽講であり、毎年代参者をおくり、お日待ちも同じ日に一緒に行っていた。榛名講と同様に「カンジンヨリ」のクジで代参者が選ばれてお札を受けてきた。明治九年子四月三日付の『御嶽山豊穂講社代参帳』(長谷川家文書)には御嶽神社の大講長黒田筑紫の領収の証が記されている。この史料によればお札料として、明治九年~三〇年までは二五銭、明治三一年~三九年までが三〇銭、明治四〇年~大正二年までが壱円、大正四年~一一年までが壱円五〇銭、大正一二年~一五年には参円が納められ、立札二枚、お札百枚~百二枚を受けてきている。時代の推移にともなってお札料も値上げされている。この文書は昭和一八年までを記しているが、お札料は七円となっている。なお、領収の日付が四月三日~一〇日の間で、代参は四月一五日のお日待ちに間に合うように参詣している。
明治9年御岳山豊穂講社代参帳
お日待ちは榛名講と一緒に行い、御嶽神社のコマイヌの軸をかけてお祀りした。各家庭でもコマイヌのお札を火盗難退除のため神棚や蔵の入口などに貼っていた。
御岳山狛犬のお礼
市内の各地域でも同様に御嶽講が組織されていてお日待ちを行っていた。