I 念仏講

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 鉦をたたいて「ナムアミダブツ」を唱名し、死者を供養する念仏講が市内の各地域にあった。この講は講中とか組などの地縁的な結びつきではなく、念仏を通しての宗教的集団で、三〇戸程度の人が一集団となっているのが普通であった。お通夜や埋葬後に葬家に行って念仏を唱え、彼岸、お盆、忌日にも集って念仏を唱和して供養をしていた。毎月定期的に集って念仏を唱える所もあった。拝島では大師様の西側の念仏堂で行うこともあれば、また、各家のまわりもちで十三仏の掛け軸をかけ念仏供養をしたが、正月から四月にかけて三~四回程度この講が開かれていた。
 多くは女性の念仏講であったが、福島では明治初期頃までは男念仏で、それ以後は女性の念仏講となり、昭和二十年頃まで続いていた。特に、二月一日は「テントウ念仏」といって、夜明けに念仏を始めて夕陽が沈むまで、一日中お寺で念仏を唱えている風習があったが、昭和二〇年頃に途絶えてしまったようである。このような念仏講は中神にもあった。七月一七日の観音堂の縁日には盛大な念仏講が行われていた。

福島の男念仏講(広福寺所蔵岩船地蔵台座裏銘文)


中神の女念仏

 地域によっては念仏講の後でお日待ちがあり、念仏の宿を担当した家では御馳走を用意して、講の人達が御飯、味噌汁、野菜の煮つけなどで談笑する楽しみの一時をもつところもあった。中にはこのお日待ちに子供を呼ぶのを通例としているところもあった。
 中神、拝島では現在でも続けられているが、なお、福島では昭和二七年頃から念仏講に準ずる、「御詠歌講」が組織され、現在でも続けられている。
 福島の広福寺の白川宗雪師によれば、故小川伍助氏が昭和初期に書き記した念仏に『無常和讃』があり、この念仏は昭和二〇年頃まで唱えられていた。因みに左にあげてみる。
 静かに無常のありさまを
 思えばこの世の仮の宿
 生者必滅会者定離
 老少不定は世のならい
 三世を悟るみほとけも
 のがれがたきは無常なり
 身をよらず世を祈るとも
 命は蜉蝣の暮またじ
 心は千世を期すれども
 姿は種花の朝のつゆ
 娑婆は日に日に遠ざかり
 死するは年々近づけり
 春の桜に夏のせみ
 秋なく鹿や冬の雪
 消ゆると死すると泣となる
 思えばはかなき世の中は
 詞あゝ無常の風一度吹きて
 有為の露永く消えぬれば
 あわれ此の世の別れにて
 耳は聞えず眼も見えず
 舌は閉られもの言えず
 いとし可愛の妻や子も
 めぐみも深き父母も
 いかなる友も兄弟も
 皆ふり捨てて死出の旅
 たとえ百万長者でも
 いかなる宝があるとても
 死んで身につく物はなし
 身につくものとて南無阿弥陀
 死出の旅路に出る時は
 さらし木綿のひとえにて
 さんや袋を首にかけ
 六文銭に珠数ひとつ
 つれもなければ只一人
 行先き知らずに門を出で
 永の旅路をとぼとぼと
 頼むは西方弥陀如来
 行かば古郷あとに見て
 親兄弟や妻や子を
 思えばせきくる血の涙
 先立つものは是非もなし
 許し給えと手を合わす
 労も出ぬようにあしろうて
 中むつまじくしておくれ
 先立つものの追善に
 念仏信心あるひとを
 七日七日に招かれて
 百万遍や御廻向を
 怠りなしに唱うべし
 南無阿弥陀仏 南無阿弥陀仏