七 馬頭信仰

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 江戸時代の中期頃から馬匹を扱かう馬喰などの人達による馬頭観世音が信仰されるようになり、各地に忿怒の相をした馬頭観世音の供養塔が建立された。市内でも馬頭信仰の一端を偲ばせる供養塔が数基遺されているが、観世音像の彫刻はなく文字だけが刻まれている。
 中神駅の南、中神と砂川二番を結ぶ大山道の三又の場所に馬頭尊の碑が建てられている。この地域は「林」という集落で、安政六(一八五九)年の大洪水の時に流失された中神村の田中地域の住民が移住した所で、当時二〇頭の馬を飼育していたので、馬持連中が慶応四(一八六八)年に建て、馬匹の守護と村の安泰を祈願したといわれている。
 由来記(昭和三三年交友自治会名による高札)によれば、
 「当馬頭尊ハ慶応四年辰建立セルモノニテ
  保食姫命
  食稲魂命
  忌待祭神
 五穀養蚕馬匹之守護ヲ祭神シ往時ハ大宮、所沢、中神、八王子、相州橋本ヲ経テ大山ニ連リ、馬ノ憩ノ処也。
 古老ノ言ニ依レバ鉄砲馬場ノ旧所ニシテ、又火ノ守護神トシテアラワナルモノアリ、先人ノ徳トシテ碑ヲ建テ祀リシモノ也。ココニ林部落百年間無大災ヲ記念、霊地ヲ整ヘ永ク守護ヲ願ウモノ也」と記している。

中神の馬頭尊碑

 江戸時代の末期にごく一部ではあるが、馬匹のみならず、養蚕、五穀の農穰、火の守護などを含めた上での馬頭信仰があったといえよう。