I 日吉神社(拝島町)

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 大日堂の西隣に鎮座するこの神社の創建は不明確であるが、古伝承によれば村上天皇の天暦年間(九四七~九五七)と言われている。江戸時代に入って享保一七(一七三二)年に大日堂が改修されているが、普明寺所蔵の『山王祭礼図絵』の奥書によれば寛保元(一七四一)年に山王社宗源の宣旨を賜い「山王大権現」の社号が許された。次いで嘉永四(一八五一)年九月一日に社殿再建の工事が行われている。延一七三二人の大工が動員され、四七〇余両の総経費を支出して、翌年九月九日に完成したのが現在の社殿である。大山咋命、香山戸命 羽山戸命を祭神としているが、この時点で山の神に鎮座していた八雲神社を合祀し、その後、明治二年現社号に改称した。山王様と呼称され人々の信仰を多く集めていた。
 境内の末社には水波能毘売命を祀る水神社、建御中方命を祀る諏訪社、豊受毘売命を祀る稲荷社がある。
 日吉神社の祭礼は普明寺所蔵の『山王祭礼図絵』によれば、山王大権現の称号を得たので氏子一同がその栄誉を記念して、社殿の修築や神輿の新造を計画したことに始まると記されている。氏子の喜捨を積み立て、明和四(一七六七)年に神輿が新造されたのを機に、祭礼道具一式を揃えて盛大に神輿の渡御式が行われた。これが祭礼の起源となり、毎年九月一九日(現在ではこの日に近い日曜日)が当日とされ、古式豊かに神官と氏子に奉戴された神輿が行列に守られて荘厳な雰囲気のうちに町内を巡行して清めるのである。

日吉神社の神輿渡御

 なお、祭礼の際に奉納される山車、囃子は、一層祭礼の雰囲気を盛り上げるが、上町の十松囃子、中町の神田囃子、下町の目黒囃子がそれぞれの特質を生かし競う様相は圧巻である。この囃子は市指定無形民俗文化財となっているが、囃子については民俗芸能の章を参照されたい。
 祭礼当日の神輿の渡御を静の祭とするならば、前夜祭として執り行われる「榊祭」は動の祭であろう。全国でも稀有の祭で都指定無形民俗文化財となっている。高サ五メートル余の大榊を檜の枠丸太で組み四方からの土俵でささえ、竹繩でくくりつけて全面に御幣を飾って神輿をつくる。これを榊神輿というが多くの若者達によって担がれ、町内を巡行する祭なのである。
 午前雰時に日吉神社の触太鼓を合図に若者達が参集し、氏子総代をはじめとして多数の参加者が神官のお祓いを受けて午前一時に出発する。五時間程度費して町内を巡行し、神社に途着し、社前に安置すると同時に榊神輿の榊の芯を奪いあう争奪戦がはなばなしく展開される。この芯を獲得した者は無病息災、幸福になれるといわれているので、若者達は体を張ってぶっつけあい榊の芯を奪う姿にはなばなしいものがある。