拝島下宿片田囃子
これら各町の奉納囃子は、先づ九月一九日の山王祭礼日の前日の夜宮の際、榊神輿の町内巡行の前に、『町内引き』と称して、各講中持ちの山車(各中講には、各々山車小屋が設けらており、通常山車はそこに収納されている)に乗り、囃子を奏じながら講中の域内を巡回する。かつてはこの山車の引き回しの際に木遣歌がうたわれていたという。
一九日の祭礼当日は、午後から山車が出、神社より古式に則った荘厳な神輿渡御の行列が、いよいよ町内を巡行する段になり、各講中の囃子は、その神輿を迎えに出、その神輿渡御の祭礼行事をまさに「囃したてる」役割を演ずるのである。そして神輿の行列が、迎えに出た山車の前を通過すると、今度は向きを変えて、神輿を送るのである。この囃子による送り迎えを受けた神輿渡御の行列が、無事村(町)内を巡行し、村内を祓い清めて神社に戻ると、再び山車は村内を引きまわされ、賑やかに囃子が奏でられる。この道行きの途中、『ブチアワセ』と称する囃子の競い合いが、数度行われる習わしになっている。これは、各町の山車が一堂に集まり、各々がその囃子の技量を競い合うものであり、相手の笛の音色に釣られて、自分達の囃子の調子が『オチナイ』ように奏じなければならないのである。この『ブチアワセ』を数度行いつつ村内を巡回し、最後に神社下の広場に三つの山車が集結し、華々しく最後の『ブチアワセ』を行い、囃子を奉納して、日吉神社の祭礼が終了するのである。
日吉神社山車引き廻し
さて次にこれら三つの祭礼囃子のうちの一つである上宿の十松囃子について、少し触れておこう。
十松囃子は、神田、目黒の両囃子に比べ、荒々しい調子のものであることを、その特徴とする。囃子の構成は、笛一、『地(ジ)』と『絡(カラ)ミ』と称される二つの小太鼓、大太鼓一、鉦一より成るものである。そして笛を中心とし、その音(ね)にあわせて、小太鼓の主である『地(ジ)』が絡み、それに小太鼓の従である『絡(カラ)ミ』が、そしてそれらに大太鼓や鉦がさらに絡む形で囃されるものであり、各楽器の〝絡み合い〟が、非常に頻繁であり、また複雑である点も、他の二者と大きく異なるところである。
かかる特徴をもつ十松囃子の内容であるが、まず初めに演奏されるのが『囃子』であり、これには『ぶちこみ(打ち込み)』・『一の切り』・『二の切り』・『三の切り』・『四の切り』の五通りの曲がある。この『囃子』の曲にあわせて獅子の舞いが舞われる。続いて行われるのが『宮昇殿』で、次いで『鎌倉』、『四丁目(シチョウメ)』の順で、所謂〝静かもの〟と称される曲が奏でられる。そして最後が『仁馬(ニンバ)』であり、これには『馬鹿面(バカメン)踊り』が入る。
以上のような特徴及び内容をもつ上宿の十松囃子は、日吉神社の祭礼が、途絶えることもなく執行されてきたことにより(註三)、長期間にわたる中断も無く、囃子連の手により受け継がれてきたものである(註四)。この十松囃子の伝承者の話によれば、明治・大正の頃は、青年男子が若衆仲間に入ることは、即ち囃子連に加入することを意味していたということである。それ故若衆組(青年会)の仲間入りをした青年達は、自然に囃子の練習にとり組むこととなり、それだけに囃子連の人数も多く、後継者不足に悩まされることもなかった。しかしきびしい練習に耐え、腕を磨き、一人前の囃子連になれる者は、そう多くはいなかったとのことである。また、かつてはこの囃子を受け継ぐ者は、一家の長男に限られていた。これは、次男以下の者に囃子を習得させた場合、彼らが、シンヤ(新家=分家のこと)として、或いは養子として村外へ出て行くことにでもなれば、その技芸が他村へ流出してしまうことになると懸念されたからに他ならない。
このような習俗の一つ一つを見ても、この祭礼囃子が、単なる芸能娯楽のためのものであったのではなく、除災招福を祈る氏神様の祭礼に際し、その祭礼を〝囃し立て〟て盛りあげ、それらの祈願を籠めて社前に奉納するという宗教的な意味や機能を備えたものであったこと、そしてそれ故氏子である村人達が如何に真剣かつ慎重にそれに取り組んでいたか、また如何にその継承に熱を入れていたかということが、自づと理解できよう。