一 日吉神社の祭礼囃子

205 ~ 209 / 241ページ
 一般に『山王(サンノウ)様』とか『産土(ウブスナ)様』と称され、親しまれてきている拝島町の日吉神社は、大山咋(おおやまくい)命・羽山戸命・香山戸命の三神を主祭神とする旧村時代以来の拝島の鎮守社である。当社の創建年代は不詳であるが、古伝によれば、村上天皇の天暦年間(九四七-九五七)であるとも言われている。普明寺所蔵の「山王祭礼図絵」(市指定文化財第一七号)によると、桜町天皇の寛保元(一七四一)年九月五日に、同社は山王社宗源の宣旨を受け、山王大権現の社号を許された、とされている。そしてこれを記念して、当社の氏子一同は、社殿改築、神輿新造等の事業を計画し、寄金を募り始め、後桜町天皇の明和四(一七六七)年にそれが結実し、同年九月一九日に新造の神輿を奉納し、盛大な神輿渡御の祭礼を挙行したということである。これが日吉神社の山王祭礼のはじまりであり、その後毎年行われることになり、それが今日まで継承されてきているのである。この神輿渡御の有様は、鳥の子紙八紙より成る「山王祭礼図絵」に、色彩やかに詳細にわたり図示されている。現在の神輿渡御の行列は、この図絵に基づいて挙行されるもので、古式豊かなものである。この図絵に示された神輿渡御の行列では、囃子を乗せた山車(だし)がその先頭に立っており、これが今日日吉神社の祭礼の際に奉納される祭礼囃子(市指定文化財第七号)の始まりと考えられている。この図絵にある如く、初めは囃子は一組であったのだが、その後年々この祭礼が盛大になり、いつの頃からかは明確ではないが、村を三分する上宿・中宿・下宿の三つの『講中(コウジュウ)』(村組(むらぐみ)組織)(註二)が、廻り番で祭礼の年番を務める等、各『講中』が単位となって祭礼に参加する形がとられるようになって、この祭礼囃子も、今日見る如き賀美(上宿)、奈賀(中宿)、志茂(下宿)の三者に別れ、互いにその技芸を競い合い、それぞれ神社に奉納する風が生まれてきたのである。この各町の三つの祭礼囃子は、賀美町が調子の荒い、笛と大小の太鼓との「絡(から)み」方の難しい十松(じゅうまつ)囃子、奈賀町が派手な調子の神田囃子、志茂町が素直で優しい調子の目黒囃子と、それぞれの流派種類を異にしている。

拝島下宿片田囃子

 これら各町の奉納囃子は、先づ九月一九日の山王祭礼日の前日の夜宮の際、榊神輿の町内巡行の前に、『町内引き』と称して、各講中持ちの山車(各中講には、各々山車小屋が設けらており、通常山車はそこに収納されている)に乗り、囃子を奏じながら講中の域内を巡回する。かつてはこの山車の引き回しの際に木遣歌がうたわれていたという。
 一九日の祭礼当日は、午後から山車が出、神社より古式に則った荘厳な神輿渡御の行列が、いよいよ町内を巡行する段になり、各講中の囃子は、その神輿を迎えに出、その神輿渡御の祭礼行事をまさに「囃したてる」役割を演ずるのである。そして神輿の行列が、迎えに出た山車の前を通過すると、今度は向きを変えて、神輿を送るのである。この囃子による送り迎えを受けた神輿渡御の行列が、無事村(町)内を巡行し、村内を祓い清めて神社に戻ると、再び山車は村内を引きまわされ、賑やかに囃子が奏でられる。この道行きの途中、『ブチアワセ』と称する囃子の競い合いが、数度行われる習わしになっている。これは、各町の山車が一堂に集まり、各々がその囃子の技量を競い合うものであり、相手の笛の音色に釣られて、自分達の囃子の調子が『オチナイ』ように奏じなければならないのである。この『ブチアワセ』を数度行いつつ村内を巡回し、最後に神社下の広場に三つの山車が集結し、華々しく最後の『ブチアワセ』を行い、囃子を奉納して、日吉神社の祭礼が終了するのである。

日吉神社山車引き廻し

 さて次にこれら三つの祭礼囃子のうちの一つである上宿の十松囃子について、少し触れておこう。
 十松囃子は、神田、目黒の両囃子に比べ、荒々しい調子のものであることを、その特徴とする。囃子の構成は、笛一、『地(ジ)』と『絡(カラ)ミ』と称される二つの小太鼓、大太鼓一、鉦一より成るものである。そして笛を中心とし、その音(ね)にあわせて、小太鼓の主である『地(ジ)』が絡み、それに小太鼓の従である『絡(カラ)ミ』が、そしてそれらに大太鼓や鉦がさらに絡む形で囃されるものであり、各楽器の〝絡み合い〟が、非常に頻繁であり、また複雑である点も、他の二者と大きく異なるところである。
 かかる特徴をもつ十松囃子の内容であるが、まず初めに演奏されるのが『囃子』であり、これには『ぶちこみ(打ち込み)』・『一の切り』・『二の切り』・『三の切り』・『四の切り』の五通りの曲がある。この『囃子』の曲にあわせて獅子の舞いが舞われる。続いて行われるのが『宮昇殿』で、次いで『鎌倉』、『四丁目(シチョウメ)』の順で、所謂〝静かもの〟と称される曲が奏でられる。そして最後が『仁馬(ニンバ)』であり、これには『馬鹿面(バカメン)踊り』が入る。
 以上のような特徴及び内容をもつ上宿の十松囃子は、日吉神社の祭礼が、途絶えることもなく執行されてきたことにより(註三)、長期間にわたる中断も無く、囃子連の手により受け継がれてきたものである(註四)。この十松囃子の伝承者の話によれば、明治・大正の頃は、青年男子が若衆仲間に入ることは、即ち囃子連に加入することを意味していたということである。それ故若衆組(青年会)の仲間入りをした青年達は、自然に囃子の練習にとり組むこととなり、それだけに囃子連の人数も多く、後継者不足に悩まされることもなかった。しかしきびしい練習に耐え、腕を磨き、一人前の囃子連になれる者は、そう多くはいなかったとのことである。また、かつてはこの囃子を受け継ぐ者は、一家の長男に限られていた。これは、次男以下の者に囃子を習得させた場合、彼らが、シンヤ(新家=分家のこと)として、或いは養子として村外へ出て行くことにでもなれば、その技芸が他村へ流出してしまうことになると懸念されたからに他ならない。
 このような習俗の一つ一つを見ても、この祭礼囃子が、単なる芸能娯楽のためのものであったのではなく、除災招福を祈る氏神様の祭礼に際し、その祭礼を〝囃し立て〟て盛りあげ、それらの祈願を籠めて社前に奉納するという宗教的な意味や機能を備えたものであったこと、そしてそれ故氏子である村人達が如何に真剣かつ慎重にそれに取り組んでいたか、また如何にその継承に熱を入れていたかということが、自づと理解できよう。