二 福島神社の祭礼と奉納囃子

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 福島町字滝の上に鎮座し、日本武尊(やまとたけるのみこと)を祭神として祀る福島神社は、江戸時代文化・文政期に刊行された『新編武蔵風土記稿』にも記されている如く、古くは蔵王権現社を、その社名とし(註五)、土地の人々から『産土(ウブスナ)様』或いは『御岳(ミタケ)様』と通称される福島の鎮守社である。
 同社の例年の祭礼は、曾ては『中の九日(ナカノクンチ)のお祭り』と称され、九月一九日に執行されるのが習わしであった(註六)。この祭礼は、主として悪疫退散を祈願するものであると考えられる。このことは、この祭礼において、後述する如き獅子頭の村内巡行、神輿洗い等の祭礼行事が行われることからも明らかである。福島はその昔、『中神内緒で花が咲く、福島疫病、云々』という同町に伝わる悪口の俗言にも表現されている如く、疫病(はやりやまい)が多かったと伝えられている。この疫病の災難から、何とか身を、村を守ろうとする、村人達の切実なる願いが、この鎮守祭礼に集約されたことであろう。この祭礼を行わぬと、忽ちのうちに悪疫が流行すると信じられ、毎年欠かさずこの祭礼は盛大に挙行されてきたのであった。
 この祭礼の中心的祭事は、青年会の若衆達による大神輿(神輿は『八雲様』と称され、通常は境内内にある福島神社の末社「八雲神社」の小祠堂に安置されている)の村内巡行である。この村内を清める意味をもつ神輿渡御の前には、露払いの役割を兼ねて、子供達による獅子頭の巡行が行われる。これは、木製の大きな獅子頭を、子供達が順番に担いで(曾ては頭からすっぽり被ったという)村内の氏子の家を、一軒一軒訪ねてまわる行事であり、それを迎える各家では、予め座敷に蓆を敷いておき、獅子頭を担いで来た子供達を土足のままその座敷にあげ、家内を清め、厄払いをしてもらうのである。
 古くから獅子は、人間の生活を脅かす悪霊を鎮める威力をもつものとの信仰があり、獅子舞等も、その信仰と結びついて行われているものであり、この福島神社の獅子頭の巡行も、そうした信仰を基底としているものの一つであると考えられる。
 獅子頭の巡行は、祭礼日の午前中に行われ、そのあと午後になって、主祭事である神輿渡御が行われる。神輿は村内各所を練り歩き、幾つか設置されている神酒所を回るのであるが、その巡行にあたっては、氏子の各家敷内には立入らない。そして神輿は、ひと通り村内を渡御し終ると、最後に多摩川の河原に担ぎ出される。そして若衆連の手で川の中に担ぎ込まれ、そこで揉まれ、水浸しにされるのが習わしであった。これは所謂「禊(みそぎ)」の一種と考えられるものであり、村内の厄神や悪疫等を鎮める意味をもつものである。こうした「神輿洗い」の神事は、賀茂川の水を神輿にふり注ぐ神事を以って遍く知られている、京都八坂神社の祇園会をその代表とするものであり、元来牛頭天王信仰の系統をひく習俗とされている(註七)。(尚、文政一三(一八三〇)年二月吉日に奉納されたと記されている、福島神社本殿前の石燈籠に、『牛頭天王』の文字が刻まれていることからも、同社の祭礼に牛頭天王信仰が反映されていることが知られる。)

福島神社の祭礼における獅子頭の巡行

 以上が福島神社の例年の祭礼の概略であるが、その祭礼において奉納されるのが、「福島囃子」(市指定文化財第八号)であり、かつてはその技芸の優秀さにより、近隣の諸村にも広く知れわたったところのものであった。
 この福島囃子の起源或いは由緒を伝える古文書類は、一切残存しておらず、それらについては明らかでないが、祭礼当日に社前に掲げられる祭礼幟旗には、嘉永三(一八五〇)年の年号が記されていることから、嘉永年間には祭礼が執行されていたこと、そして当然囃子の奉納も行われていたことと考えることができるのである。

福島神社祭礼幟旗

 この福島の奉納囃子は、古くは目黒囃子を継承してきたものであったのだが、明治の終り頃、囃子連の一員であり、踊り等の技芸に秀でていたことから、『踊り百(ひゃく)さん』と渾名されていた薬袋(みない)百蔵氏が、主として神楽を盛んに行っていた、埼玉県入間郡三芳村(現、三芳町)の竹間沢に芸を習いに行き、そこで芝囃子を習得して帰村した時から、芝囃子を行うようになったと伝えられている。
 芝囃子は、別名「御座敷囃子」とも言われ、他の囃子に比べ、上り下りの著しい調子の囃子であり、きめ細かな味をもつことを、その特徴とするものであるという。
 囃子の構成は、中心となる横笛一、小太鼓二(高音のものを『カシラ(頭)』、低音のものを『シリ(尻)』と称す)、大太鼓一、鉦一から成る。
 囃子の曲目の種類は、囃す順にあげると、最初に行う『ブッコミ』と称す「囃子」、次いで宮昇殿、鎌倉、宮鎌倉、国固め、といった「静かもの」、次いで少々賑やかな「四丁目」、それに最後に演ずる、「狐の種子蒔」・「恵比須の鯛釣り」・「天の岩戸」・「狂い獅子」等の踊りの入る「仁馬(にんば)」等である。四丁目から仁馬へ移る際には、囃子が入る。囃子の内容は、前述の拝島の祭礼囃子とほぼ同じである。

福島囃子

 福島のこの祭礼囃子は、戦前より昭和二〇年代ころまでは牛車を山車として、村内を引き回した時期もあったようであるが、本来山車を出して行うものではなく、神社境内の神楽殿において奉納する形が正式なものであり、神輿渡御の出発に際しては、神楽殿にて「送り囃子」を、またその帰社にあたっては「迎え囃子」を奏ずるという役割を担っていたようである。この囃子を演ずる舞台である神楽殿は、古くは『お仮屋(かりや)』と称し、同社の本殿(註八)の覆屋の前に、毎年の祭礼のたびごとに、組み立てて造っていたということである。今日の神楽殿は、昭和一二年本殿が現在地に移された後、旧本殿の建物に、それまでの組立式の舞台を造りつけたものであり、古風な様式を今日に伝えるものとして注目される建造物でもある。
 ところで既に述べたように、この福島囃子は、曾てはその技芸が優れていたことで、四囲の村々にも広く知れわたっていたものであり、それ故近隣の諸村の祭礼の際に呼ばれ、その技芸を披露したことも多かったようである。例えば八王子、日野の中町や森町、立川、拝島等は、そうした付き合いの深かった所であったという。しかしその囃子の活況の背景には、一人前の囃子連になるための厳しい稽古があったことを見逃してはならないのである。囃子の稽古は、『寒稽古』と称し、主として冬の農閑期に行われた。稽古小屋に囃子連の面々が集まり、一人数銭づつ出し合い、石油を買い、ランプの灯の下で黙々と稽古に励んだという。太鼓の練習には、本物の太鼓は使わされず、蒲を敷きつめた床の上に、孟宗竹一本を置き、それに麦藁を巻きつけ、それを繩で縛りあげたものを太鼓の代用とし、手製の撥でこれを叩いて練習したのであった。また踊り手は、狐やおかめ等の面子を、素手で触れることも厳しく禁じられていた程であったと言う。
 こうした厳しい稽古にもめげず、近隣に知られる程、その技芸を練磨し得たのも、その祭礼囃子が、悪霊退散・疫病防除といった村人の切実なる祈願を籠めて執行される鎮守の祭礼を囃し立て、またそれを氏神に奉納することにより、それらの悪霊・疫病を鎮める効果をもつといった、重要な信仰的機能を有していたからに他ならぬと考えられるのである。