三 熊野神社の獅子舞

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 伊弉冉(いざなみ)命・速玉之男命・事解男命の三神を祭神とする中神町の鎮守熊野神社では、『九月のお節句』と称される、例年の秋の祭礼に際して、古くから神輿渡御に代わって、獅子が村内を巡行し、社前において獅子舞を奉納することを習わしとしている(註九)。悪霊退散・五穀豊穣を祈願するとされるこの中神の獅子舞は、古老の言い伝えによれば、三百数十年の伝統を有するものであるとされているが、それを実証する史料は、残念ながら今日に伝わっていない。ただ、獅子舞関係の史料としては、中野和夫家所有文書中に、天保一四(一八四三)年の「獅子舞祭礼執行願」という書付一通があり、それには、
  乍恐以書付御届ヶ奉願上候
 武州多摩郡中神村役人一統奉願上候 例年之通り相談之上九月廿九日獅子祭礼仕候 此段以書付御届ヶ奉申上候 右聞済
 奉願上候以上
          中神村
             名主 正兵衛印
             組頭 新兵衛
  天保十四卯九月
  御陣屋
   御役人衆中様
とあり、名主・組頭の連名で、毎年恒例の獅子舞祭礼を、例年通り九月二九日に執行する旨を、陣屋の役人宛てに届け出ている事が窺い知れる。従ってこの書付から、少なくとも江戸時代後期にあたる天保年間前後の時代には、例年この祭礼が執行され、存在していたことが知られるのである。その後、明治時代を迎えても猶、この獅子祭礼の伝統は、継承され続けてきたのであるが、古老の話によれば、明治三〇年代に至って、日清・日露の相次ぐ戦争の煽りを受けて、一〇数年間にわたって祭礼の中断を余儀無くされたという。しかし大正四年一一月一〇日の大正天皇即位式の大典を契機に、それを記念して復活され、その後も数度にわたって中断或いは祭礼日の変更(註一〇)を繰り返しつつも、伝統的な姿をそのまま受けついで今日に至っているものである(註一一)。
 さて、中神の獅子舞の構成であるが、それは一人立ちの獅子三頭(大頭(ダイガシラ)・中頭・雌獅子)を中心とし、それに花笠を被った簓摺(ささらすり)の少女六名、一・五メートル程の棒を携えた、露払い役を兼ねる棒遣いの少年四名、剣士と称される太刀持ち二名、道化役の『ヘーオイ(蠅追い)』二名、笛と歌い手若干名より成るものである。かかる獅子舞の構成は、奥多摩・八王子・立川・町田等の都下の各地において伝承されている獅子舞に共通しているものであり(註一二)、従って中神の獅子舞は、それらと系統を同じくするものとみなすことができる。また、一人立ちの獅子数頭が、組をなす形は、長野県以東、関東から東北地方に広く分布するものである(註一三)。
 次に中神の獅子舞の内容について、若干触れることにしよう。
 獅子頭は、普段は神社の蔵に、厳重に収納されており、祭礼日の前日に初めて蔵から出され、お祓いを受けた後にその年の『獅子の宿』に移される。宿ではその獅子頭を床の間に置いておく。そして一夜が明け、祭礼日の朝、獅子頭はお祓いを受けるために、再度社前へ運ばれる。このお祓いを済ませ、獅子が宿へ戻って来ると、愈々獅子の道行き(これを中神では『道中(ドーチュー)』と称している)にはじまる獅子祭礼の幕がきって落とされるのである。道中の出発にあったて、獅子は、その年の『宿』において、『御礼狂い』(獅子舞のことを『獅子狂い』と称す)と称し、一二通りある獅子狂いの一つである「ふち狂い」を〝狂う〟ことになっている。
 道中は、ひょっとこの面をつけた二人の『ヘーオイ(蠅追い)』を先頭とする。蠅追い二名は、獅子頭や獅子の衣装等を納める長持一箱を、一緒に背負い、「ホーイ、ホーイ」と掛け声をかけながら、ゆっくりとした歩調で進む。この蠅追いのあとに、剣士二名、棒遣い四名、簓摺六名とそれらに囲まれた獅子三頭、笛と歌い手若干名の順で並んだ行列が続き、ゆっくりと村内を巡行する。
 道中の途中、行列は、熊野神社の東方にあたる、字東通に位置する、『産土(ウブスナ)様』と通称される日枝神社に必ず立寄ることになっている。そして熊野神社よりもさきに、同社に獅子舞を奉納する(註一四)。このあと改めて獅子行列は熊野神社にむかい、鳥居の外から境内に獅子が『狂い込んで』、道中が終る。境内には、拝殿の西側の広場に、注連をめぐらした二間四方の舞台が前以って設けられており、その舞台において獅子舞が奉納されるのである。
 奉納獅子舞の狂いには、
  ふち狂い・帯狂い・花懸り・剣懸り・竿懸り・鞠懸り・女獅子隠し・跳び違い・摺り違い・三拍子・笹懸り・太刀懸り
の一二通りがあり、狂う順序もほぼ前記の順で行われる。尚女獅子隠しが終了すると、『中入(ナカイリ)』と称される休憩が入る。この『中入』を告げるのは、蠅追いの役目である。

熊野神社獅子舞

 各狂いの初めには、必ず棒遣いの舞いが入り、その舞いも各々の狂いにあわせて一二通りの種類がある。
 一二通りの獅子狂いには、各々筋がある。例えば「剣懸り」は、舞台左右に簓摺の少女三名づつが相対して並び、その間で剣士一名が真剣を振りかざしながら三頭の獅子と絡み合って舞うものであり、山中に出没するという獅子を退治するために剣士が山に入り、折良く出合った獅子と対決するが、勝負決し難く、剣士は太刀を納めて山を下る、という筋の狂いである。また「竿懸り」の狂いは、一本の長い竹竿を舞台に出し、その竿に獅子が掛って激しく動く舞いであり、獅子が野や畑を荒すので、竿で垣を作り、それを防ぐのだが、獅子は結局その竿を破って入って来てしまう様子を表現しているものと伝えられている。『中入』前の最後の狂いである「女獅子隠し」は、花の間に隠れている女獅子を、大頭と中頭の二頭の獅子が見つけ、両者で女獅子を奪いあう筋をもつ狂いである。

熊野神社獅子舞--大刀かがり

 このように、それぞれ筋をもった一二通りの狂いは、笛及び歌を伴って狂われる。獅子狂いの笛は、狂い出しと終りはすべての場合において同じ調べであるが、各狂いにおける本狂いのところだけ、各々その調べを異にしている。獅子舞歌は、一二通りの狂いに共通して、次の如き構成によって歌われる。
 (一)入れ端(いれは) (二)眠り (三)本歌 (四)終り
第一の「入れ端」は、狂い初めに挿入されるものであり、その歌詞は次の如くである。
  天から降りた唐松の屏風
  一重にさらりと引きまいさいな
  一重にさらりと引きまいさいな
  引キャーマーサー エーヨーセー
次に歌われる「眠り」であるが、これには以下の六種類の歌詞があり、各狂いに応じて選択されて歌われる。
 (一) この宿は縦が十五里横七里
     入れは良く見ろ 出には迷うな
     エーヨーサエー
 (二) この宮は飛騨の大工(たくみ)が建てしかや
     門の冠木(かぶき)に鷹が巣をくう
     エーヨーサエー
 (三) 名主殿今が盛りと見えて候
     書院座敷でお壺眺める
     エーヨーサエー
 (四) この森に鷹がすむげて鈴の音
     鷹じゃござらぬ御神楽の音
     エーヨーサエー
 (五) 山が八つ谷が九つこれは又
     何れ御出のお礼なるかや
     エーヨーサエー
 (六) 五十叢(いそむら)の宿の娘に目をくれて
     居るにゃいられずいざや立れん
     エーヨーサエー
 
 これらの「眠り」の歌の(一)から(四)は、「剣懸り」、「女獅子隠し」、「太刀懸り」の狂いを除いた他の狂いの「眠り」の歌として、それらに対して選択挿入される。「剣懸り」及び「太刀懸り」の「眠り」の歌は(五)のもの、「女獅子隠し」の「眠り」は(六)の歌と、各々決っている。
 第三の「本歌」は、各狂いの本狂いの際に歌われるものであり、各狂いの種類ごとにその歌詞は異なる。各々の「本歌」の歌詞は、次の如くである。
 一、花懸り
    むかい小山の百合の花
    蕾んで開いて さっとひらいた
    蕾んで開いて さっとひらいた
 二、摺り違い
    ここは何処 ここは吉野の花どころ
    花を散して 花遊ばす
    花を散して 花遊ばす
 三、鞠懸り(竿懸り・太刀懸り・剣懸り)
    唐でからひく唐獅子を引く
    千越層(ちえそう)堅めの鞠※(竿・太刀)遊ばす
    千越層堅めの鞠※(竿・太刀)遊ばす
 
    ※「竿懸り」の本歌の場合は、「鞠」の部分が「竿」となり、あとの歌詞は同一。「剣懸り」及び「太刀懸り」の本歌は、「鞠」の部分が「太刀」にかわるだけで、その他の部分は同一。
 
 四、女獅子隠し
    今朝の寒さに朝霧が降り
    それで女獅子が隠され申した
    それで女獅子が隠され申した
 
    雲も霞も吹きはらし
    女獅子男獅子が斯(か)く並んだ
    女獅子男獅子が斯く並んだ
 
 五、笹懸り
    笹にとまりた群々(むらむら)雀
    羽先を揃えてぱっと立ち候
    羽先を揃えてぱっと立ち候
 
 六、三拍子
    ここの御庭の姫小松
    一枝とめて腰休めろ
    一枝とめて腰休めろ
 
    海のとなかの浜千鳥
    浪に揺られてぱっと立ち候
    浪に揺られてぱっと立ち候
 
    三拍獅子の切りならば
    今の拍子に切り返さいな
    今の拍子に切り返さいな
 
 各狂いの最後に共通して歌われるのが、「終り」と称されるものであり、その歌詞は以下の如くである。
   獅子のしばないに露が降り
   お暇申していざ返さいな
   お暇申していざ返さいな
 
 以上の「入れ端」・「眠り」・「本歌」・「終り」から成る獅子舞歌が、〝狂いにあわせて〟歌われ(演者達の話では、歌や笛にあわせて獅子狂いが行われるのでなく、獅子狂いにあわせて笛や歌を入れるのだ、と言うことである)、一つ一つの獅子狂いが行われてゆくのである。そうして一二通りの狂いがすべて終ると、最後に「千秋楽」の謡いが歌われて、獅子舞祭礼の幕がおろされるのである。「千秋楽」の歌詞は、次の通りである。
   さて万歳の生衣(うみごろも)
   さい海浪には悪魔を幣い収むる
   手には寿福をいだき
   万歳楽には命を延ぶ
   千秋楽には民を撫で
   あいみ相生の松風
   さつさつの声ぞ楽しむ
   さつさつの声ぞ楽しむ
 
 以上が中神町熊野神社に伝わる獅子舞祭礼の全貌である。口碑であり、不確実ではあるが三百数十年の伝統をもつと伝えられる、一人立ち三頭の風流(ふりゅう)獅子舞であるこの中神の獅子舞は、文学博士本田安次氏の指摘にある如く、蠅追いが出、簓摺が六名出、獅子舞歌が継承されている等の諸点からして、しっかりとした伝統に根ざしたものであり(註一五)、それ故古い形態を今日に忠実に伝えているものでもあり、かかる観点からして、それは貴重な文化財であると言えよう。
 悪魔(悪疫)退散・五穀豊穣といったさまざまな祈願を籠めて、この獅子舞を奉納し続けてきた遠い祖先の人々の姿を考えるとき、この獅子舞及びその祭礼が、如何に実生活と強く結びついて行われていたか、如何にそれらが実生活の中で意味をもち、重要な役割を果してきたかということが理解される。その点からも、この獅子舞が、極めて貴重な文化遺産であることを、改めて認識させられるのである。
 註補
 一 本田安次『総論』。(「日本民俗学大系九・芸能と娯楽」所収。)平凡社、昭三三年。
 二 第九編第一章第二節「講中」の項参照。
 三 最近では、昭和二〇年の空襲により、祭礼が一年間行われなかったことがあっただけで、古老達の記憶には、祭礼を行わなかった年は無かったという。祭礼を行わぬと流行病(はやりやまい)がおこると信ぜられており、昭和二〇年にも悪疫が拡まったとも伝えられている。
 四 中宿の神田囃子は、戦前における一時期後継者不足から執行が困難となり、羽村や福島(昭島市福島町)の囃子を呼び、祭礼囃子を代行してもらったこともあったという。
 五 『福島神社』の社名は、明治初年の社名改称以降のものである。
 六 『新編武蔵風土記稿』には、八月五日が祭礼日であることが記述されている。従って九月一九日を祭礼日としたのは、江戸後期以降のことであろう。
 七 大間知篤三他編。『民俗の事典』(「民俗民芸双書 別巻」)。二五頁。岩崎美術社刊。
 八 同社の本殿は、往古は現在の公民館の位置に南向きに建てられていたのであるが、明治一四年に現在の神楽殿の地に、西向きに遷座され、さらに昭和一二年に、再度現在の本殿の地に遷座されたものである。今日ある神楽殿は、本文中にも記したように、間口三間、奥行二間半の旧本殿の覆屋を改造したものである。
 九 従ってこの祭礼では、神輿は見られない。これは熊野権現を獅子頭で以ってあらわす信仰によるものと思われる。但し祭礼日前日の夜宮には、露払い・お清めの意味をもって、三尺四方の丸太の枠を組んだ上に、土俵二俵を乗せ、そこに榊を立てた『サカキ』と称される小神輿を、子供達が担いで村内を練り歩く風がある。
 一〇 獅子舞を主祭事とする熊野神社の祭礼は、中野家文書にもある如く、本来は『仕舞九日(シメークンチ)』である九月二九日を、その祭礼日と定めていたようである。それが、大正時代の復活後、『中の九日(ナカノクンチ)』即ち九月一九日に変更になり、さらに養蚕業の盛んであった昭和初期には、『中の九日』では晩秋蚕の飼育期と丁度重なってしまうことから、『仕舞九日』に戻され、さらに一〇月九日の『初九日』にされたりして、祭礼日が一定しない時期もあった。現在祭礼日は八月一九日に近い日曜日となっているが、これは昭和三九年にこの獅子舞が昭島市の無形文化財としての指定をうけ、中神町有志により獅子舞保存会が結成されて以後のことである。
 一一 詳しくは、東京都教育委員会編「西多摩文化財総合調査報告(第一分冊)」(『東京都文化財調査報告書、十九』所収。昭四二年)参照のこと。
 一二 宮本馨太郎。『日本の民俗・東京』。一七七-一八一頁。第一法規。昭五〇年。
 一三 三隅治雄。「風流」。(『日本民俗学大系』第九巻所収。)一三九-一四二頁。平凡社。
 一四 この習わしは、日吉神社が、熊野神社の創建以前から、中神の鎮守社として厚い信仰をうけていたとする土地の口碑を裏づけるものと考えられる。また、中神の人々が、日吉神社を「産土様」と称し、熊野神社にはそうした呼称を使わず、通常は「熊野様」と称していることも、その証左になるのではないだろうか。
 一五 本田安次。『中神の獅子舞』(山崎藤助編、「郷土研究」第四編所収。)三〇-三二頁。昭四〇年。