第一回 穂村十市郎、キツネを助けて災いを招く

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  月の野露草雙紙 巻之一
                            武野 不老軒うたゝ著
  第一回 穂村十市良助狐醸(かもす)災禍
今はむかし永禄の頃とかや、駿河(するが)の国宇津の谷(うつのや)峠のかたはらに、穂村十市良(ほむらといちろう)と言へる武士の浪人ありけり、先祖は相模入道高時に仕しが、新田義貞の為に主家亡び、後当国に身退きこの所に住て代々すぎぬ、今代(こんよ)妻は蔦(つた)と言、一子を市松(いちまつ)とて三歳にぞ成りける、抑この十市良と言へるは、勇あれども猥に人とあらそはず、生得(うまれつき)廉直にして、生(いけ)とし生(いけ)る物の命をとる事は言もさら也、花にあらし、草木の霜にあへるの類まで憐み、物毎(ものごと)に其愛情深く、行状謹厚の者なりけり、されども悉く貧にして、朝采夕肴(あさなゆうな)の煙りさへほそく、すべて三人の口を養ふ術(てだて)には、妻はこの里の名産十団子(とうだんご)を売、夫は里の児等(こら)を集て手ならひ学文(がくもん)の指南して、纔の弊物(しやれい)をうけて業(いとなみ)とす、然るに妻のつた、常ならぬ身となり、臨月(あたるつき)又男子を生り、夫婦の祝(よろこ)び斜ならず、近隣の姥妻(ぼさい)つどひて祝びこと姦しきまで取済(とりすま)しけるが、この程、産婦肥達兼(ひだちかね)、終(つい)には病(いたつき)となり乳出(ちいで)ず、十市良大に驚、種々良薬を用ひ神仏を祈り、心を痛めて看病(みとり)けるが、其しるし露斗(ばか)りもあらざれバ、今ハ産子(うぶこ)の飢に当惑し、乳母(うば)を抱(かかえ)んには貧き身なれば、只得(せんすべ)なく、焼野(やけの)の雉子(ぎじす)夜の鶴、子を思ふ身のいぢらしさ、腸(はらわた)を断(たつ)思にて、十市良は赤子を懐にかき抱、爰やかしこの貰乳(もらいち)に、降ぬ雨にも袂(たもと)を絞、泣子をすかす親の眼に、あつき泪は遠近(おちこち)の、隣村へ乳貰(ちもらい)に行道筋に一つの野あり、この野司(のづかさ)に至りぬるに、何やらもの悲しく泣者あり、松明(たいまつ)をかかげて見るに罠にかかりし大なる狐なり、ほとほと命絶んとす、十市良是を見るにしのびず、愛心しきりに発し、星明りにあたりを見るに人もなし、あはや助てえさせんと、括繩を解放ければ、狐は辛き命を助、漸に起かえり、さも嬉しげに見かえり見かえり尾を振てぞ逃去りぬ、十市良は蔡(ちり)打払ひて其場を去り、例の如く乳を貰ひ我家へ帰りける、然るにこの罠をかけたる者、何人なるを尋るに語却説爰(はなしあとへもどる)にこの近郷に俳徊する駄太平(だたへい)と呼倣的(よびなすもの)あり、そも為人(ひとなり)を聞に、幼稚時(おさなきとき)より賭(かけごと)を好、或は押領(おしかり)あるひは揺衒(ゆすりたかり)、漸(やや)もすれば人と口論し、国の正(かみ)の尋的(たずねもの)とさえ成りたる程の一個の悪党、この辺に隠れ住、剰(あまつさえ)殺生を好、この夕、狐罠をかけ置、己(おのれ)は隠家(かくれや)へ立帰り狐朋狗党(こほうくとう)の溢者(あふれもの)をあつめ、例の博奕をぞ催しける、時に国正(くにのかみ)よりの下知として、十手取繩(じゆつてとりなわ)をひらめかし、裏表より大勢むらむらと踏こみぬ、かやつら狼慌忙狽(あわてふためき)、表へにげて打倒(たおさ)れ、裏へ走って投つけられ、床の下へ這込(はいこむ)あり、釜の下へ這こみ、焼(たき)さしたる火に焼(やけ)どして辛ふじて逃るもあり、駭愕(がいがく)して措所(おくところ)を知らず、兎角(とかく)する間に駄太平を取て押(おさ)へ村長(むらおさ)が方へひかせ、駄太平が積悪上聞(せきあくじようもん)に達し、斯搦取(かくからめとり)、村方へ預るあいだ、明朝早々館(やかた)へ召連来るべし、取逃すべからず、と役人は各役所へ帰りけり、庄屋大(おおい)におそれて人あまた呼寄せ、きびしく番をつけ、夜の明るを待居たる、すでに鶏鐘算(とりかねかぞ)へつくして烏啼(からすなき)、扶桑(ひんかし)に横雲引はえてほのぼのと夜あけぬれば、こわいかに、今迄麻繩をもて高手小手に戒(いましめ)ありしが、今見れば藤かつらもて唯ぐるぐると引まえたる斗(ばか)りなり、庄屋、番人、駄太平も大いに不審(いぶ)かり、如何なる所意と言ことを知らず、暫惘(しばらくあきれ)て居たれしが、良有(ややあつ)て駄太平横手を打、我思ひ当る事こそあれ、昨夜野に行て狐罠をかけたりしが、この野に歳経(としふ)る狐住りと聞伝ふ、かやつ我かけたる罠なる事を悟り知りて、我をいましめ置(おか)ば我にとられまじ、と思ふ畜生の浅略(あさはか)なる心より、斯(かく)して罠の餌を喰はんと計たるなるべし、と語りければ、人々初てうたがいの旨晴(むねはれ)、且笑且謚(かつわらいかつつぶやき)ぬ、村正(むらおさ)駄太平に言へるは、汝(なんじ)是迄の不身持、以後謹しまづんば遠からず誠の繩目に逢べきぞ、是より急度嗜(きつとたしな)むべしと言ければ、駄太平心のうちにはせせら笑ひ、程よく受ひきてこの場を去り、かの野に行て罠を見れば、罠の括繩(くくりなわ)に血など付、毛もこぼれちりてあれば、定て狐かゝりたる様子なるに、何者か狐を奪ひさりたるなるべし、とあたりを見れば、一ト(ひと)ひらの襁褓(むつき)あり、駄太平きと思いけるは、この程穂村十市良、乳貰に行とてこの所を往来(ゆきかよふ)なり、襁褓(しめし)の落てあるからは、かやつ物毎(ものごと)に憐(あわれみ)深く馬鹿気(げ)なる者なれば、かの狐を放ちやりたるなるべし、いで/\思ひ知らせんぞ、と怒気心頭(どきしんとう)に発し、例の悪心忽起(たちまちおこり)、十市良をぞ待居たる、斯(かく)て十市良ハ其日も未明に起て、妻の病の容躰を問ひ医師(くすし)の許(もと)へ行、薬を乞、自温(みずからあたため)て、湯をはこび、心をつくす深切(しんせつ)に妻は泪(なみだ)をはらはらとこぼして言、我輩程果報つたなき者はあらじ、貧苦に過るのみならず、久々の我病如何(いか)なる前世の因縁にや、御身にかゝる苦労をかけあるに甲斐(かひ)なき我身やと、世を託(かこち)身を恨覚(うらみさめ)々と打歎(なげ)けば、夫もこぼるる泪(なみだ)を隠し、汝(なんじ)さまて悔(くやむ)ことなかれ、心長く養生なさば、病も追々本復すべし、諺(ことわざ)に七倒八起(ななころびやおき)と言事あり、二人の子供を守育先祖の家名を継せんこそ行末の楽、とさまざまにこしらへ宥(なだめ)、力を添、赤子をかき抱き例の如く隣村へ乳貰らひに出行ば、妻はうしろ影見送りて、やよ我夫(わがつま)、御身早く帰り来てたびたまえ、野中の一つ橋踏はづし給ふな、と病苦の中にも夫子(つまこ)のうへ、虫が知らせる物あんじ、市松は父に取つき、爺様(ととさま)わしも行たい、と携(すがれ)ば、父は漸に欺(だまし)すかして立出る、まだ春若き薄暮時、折から降来る雪よりも、先へ消行命(きえゆくいのち)とは、しら菅箕(すげみの)を打かたげ、かの野中にさしかゝれば、片山に啼木兎(なくみみずく)の声もあはれをぞいやましぬ、斯て駄太平ハ最前より十市良が来るを今や遅しと待かまえ、荊棘(いばら)もやもやとしげりたる陰に隠まつとは夢にも知らず、嗚呼無暫(ああむざん)なるかな十市良、雪途(ゆきど)に歩行煩(あゆみわづらふ)で、脇ひらも見ず行物陰(ゆくものかげ)より、大なる丸太をもて駄太平ぬっと出て、物をも言はず、十市良が両の向脛(むかはぎ)をうんとはらへば、何かはたまるべき、俯(うつぶし)にどふと倒れたる上より、たたみかけて続さまに打ければ、流石手練(さすがしゆれん)の十市良も不意を打れ、殊(こと)に灸所(きゆうしよ)の痛手なれば、嗚(あ)と言も得ず息絶たり、駄太平は仕済(しすま)し顔、我を夜たゝ苦めし遣恨ある狐めをよふも逃しやりしぞ、今思ひ知れやと匈〓(ののしり)けり、時に燈火(ともしび)のかげ頻(しきり)にあらはれて、あたりを照らしけれバ、駄太平驚き、見咎(とがめ)られては六(む)ツかしと、踏(あと)をも見ずして逃去けり、此燈(ともしび)何れの火やあやし、扨(さて)其時赤子は懐を抜出(ぬけいで)、何の畑の疇溝(あぜみぞ)に転入(まろびいり)、しばし息の根をとめけるが、良(やや)ありて泣出しける、折から狐来りてかの赤子をくわへ何国(いずく)ともなくさりたるなり、されば十市良が妻の蔦(つた)は夫の帰り遅ければ、大に案じ煩(わずらひ)、隣家の者も集(つどい)て、評議する間も時移れば、隣村へと人を走らするに、十市良は道にて何者にや打殺されし躰(てい)にて居たり、人々大に騒動し、顔に水そそぎ、耳に口あて、呼ども其甲斐(かい)なければ、只得(せんすべ)なく赤子も其場にあらざれば、是も狼(おおかみ)にや喰れつらめと、この事かくと告ければ、妻は心神播乱(しんじんはんらん)して、病の床を逶〓出(よろぼいいで)、伏沈(ふししづむ)こそ道理なれ、扨(さて)しも有べき事にあらざれば、この事斯(ことかく)と国の正(かみ)へ訴へ検使を乞受(こひうけ)るに、役人死骸を詳(つばら)に改て言へらく、この者は物もて打殺したる躰(てい)なり、然(しかり)といへども証拠とすべき手がかりなければ、後日に怪しきと思子細あらば訴出べしとて、この一条は事済(ことすみ)て、葬(はふむり)の事もそこそこに終りつるが、妻の蔦は下地(したぢ)の病の其うえに、夫子(つまこ)の別れに逆上(とりのぼせ)、狂人(きちがひ)となり、我夫(わがつま)よ、妾(わらは)を捨て何国(いずく)へおはせしぞ、妾(わらは)も連てゆきたまへ、よゝと言て、先祖より伝りしとて、秘め置し太刀(たち)ありしが、この太刀に白紙引さきて括つけて、それを持、市松を背に負ひ、夜に紛て何国(いずく)ともなく狂ひ出て去りけるが、この行方(ゆくへ)知る者さらになかりけり、是迄はこの雙紙の発旦(ほつたん)也、この狂人と市松、また狐にくはへ行れし赤子等の其行方、如何なり行や、是を知らんとならば末(すへ)々の巻を見て知り給へかし、