第二回 竪野広之進の妻、蛇にかまれて幸福を得る

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  第二回 竪野広之進妻螫(さされて)蛇得幸福
爰に武(む)さしの国滝山(たきやま)の城主、北条陸奥守氏照公(ほうじやうむつのかみうぢてるこう)の家臣に、竪野広之進久行(たてのひろのしんひさゆき)と言へる者あり、元(もと)今川義基(よしもと)に仕しが、謂(ゆへ)ありて氏照、義基より是を乞請(こひうけ)られて、今、かの館(たち)に仕官(つかふ)る、この広之進志(こころざし)温和にして、武備(ぶび)の業(わざ)はさら也、文事(ぶんじ)の道も闇(くら)からず、妻を桂木(かつらぎ)とて睦(むつ)ひけるが、一子(いつし)なき事を深く愁ひ、神に仏に祈るといへとも、其しるしなく打過ける、一日(あるひ)妻桂木、広庭(ひろには)に出て景色を詠(ながめ)居たりしが、草の中より一つの小蛇出て、桂木が足の爪際に喰らひつきぬ、されどさまで痛(いたみ)もなかりしが、日を経て次第に痛み出ければ、大に驚き、医療を尽すといへども、疵口広(ひろ)らかにふへたゞれ、夫婦さま/゛\に心を痛めける、時に夫婦、ある夜の夢に、草芒々(ぼうぼう)たるうちより陽炎(かげろう)のたつよと見へしが、綾羅(りやうら)の衣(きぬ)の色わりなふ艶(つやヽやか)なるを身に纒(まとひ)、透通(すきと)ふる斗(ばかり)の容顔美麗(ようがんびれい)なる上廊(じやうろう)、手に諸(もろもろ)の草をたづさへ、夫婦に向ひて言へらく、汝等(なんじら)この程毒虫に悩(なやまさ)れ、其疵決して治(じ)しがたし、この事謂所(ゆへ)あれば也、其子細言て聞(きけ)ん、汝が先祖竪野左衛門、昔大井川の水上におゐて、大なる蛇二つ出て耕作をあらし、または人を劫(おびやかす)事ありしを、かの蛇一つを退治したる事あり、是汝も聞伝へ知りたらめ、其蛇一つは、今当国狭山の池に大蛇となりて住り、其余類(よるい)子々孫々を恨(うらむ)といへども、代々打続たる子孫の勇気におそれ、未(いまだ)思ひを果さず、この程の小蛇(へび)も其余類の仕業(しわざ)なれば、其疵容易に癒(いへ)がたし、それを癒(いやさ)んとならば、相州柴胡の原(さうしうさいこのはら)に至りて、めなもみと言草を取り、煎湯(せんとう)にして洗ふ時は、その疵正(まさ)に癒るなり、汝等日頃の志にめでて是を告るなり、かならず疑ふ事なかれ、我は是草なり、と言かと思へば、愕然(がくぜん)として夢はさめたりけり、夫婦奇異の思ひをなし、互に夢合(ゆめあわせ)するに、露斗りも違(たがは)ず、こやこの夢の異人を思ふに、古き書にも、くさかや姫と言へるあり、また草守(くさもり)の神とも言へり、佐保姫(さほひめ)とて春の色染(そむ)る神あり、竜田姫(たつたひめ)とて秋の色染るあり、尤形はなき神とは知れと、我々が他念なき赤心(まごころ)を仏神も憐み給ひ、かかる妙薬を告給ふなるべし、と坐(そそろ)に歓び、夜の明るを需(まち)て、従者(づさ)どもを将(い)て柴胡の原(さいこのはら)にぞ急ぎける、さればかの原に到りぬるに、何れをめなもみと言へる草や是を知らす、広之助思ふに、めなもみの事、徒然草(つれづれぐさ)にも見えたれども、説々(せつせつ)同じからず、稀〓(きけん)、地菘(ちすう)、天名精(てんみやうせい)、鶴虱(かくしつ)、一名を猪(い)のしり草(くさ)、各其名はあれ共、何(いづれ)を何と定がたし、草守の神御手(おんて)に諸草(もろぐさ)を携へ給ひつれは、諸草を集なば、其うちにめなもみもあるらめとて、千々(ちち)の草々(くさぐさ)をぞ集ける、すでに集尽(あつめつく)して、帰路に趣(おもむか)んとしたりしが、傍(かたはら)に児の泣声聞(きこ)へければ、大に不審(いぶかり)、捨子にてもやあると行て見るに、ふつに泣止(やみ)て知れず、爰(ここ)よかしこよと広野を打回るに、木瓜菫(ぼけすみれ)の花に戯れあそぶ胡蝶(こてふ)一つ、左右に飛かふを余念なく打守、さも嬉しげに笑(ゑ)める顔、其愛らしさ譬(たとへ)べくもあらぬ、堆(うづたか)き三才斗の男子、草むらの中に這(はらば)ふて居たり、かの蝶飛去れば児は泣出し、泣出せば蝶また飛帰りて舞、広之進立寄んとするとき、蝶頻(しきり)に高く舞上り、行末(ゆくへ)も知らずなりぬ、広之進つく/\と思ふに、かの蝶なみ/\の蝶にあらず、扨(さて)こそ草守の神蝶と化し、この子を守り給ひしなるべし、返す返すも不思義なり、我年頃(としごろ)子なき事を歎き、神仏に誓(ちかひ)しに、感応あって授給ひしなるべし、と感悦し、児(ちご)がかけたる守袋(まもりふくろ)をひらき見れば、駿河の国宝台院(ほうだいゐん)の観世音の御影(みえい)と、弘治(こうじ)三巳(み)の年三月廿一日誕生と書記(かきしる)せり、また傍(かたはら)に、錦に包める一振(ふり)の太刀(たち)あり、広之進是を得(とく)と見て大に驚、掌(たなひら)をはたと打て言へらく、是こそ伝聞く妖魔切(ようまきり)の名劒(めいけん)なり、この短刀(かたな)に付てはいみじき物語りあり、元鬼丸(もとおにまる)と言へる太刀あり、其太刀北条四郎時政公(ときまさこう)の所持なりしが、或時一尺斗りの小鬼出て、夜な夜な劫(おびやかす)事あり、時政是が為に身躰(しんたい)大いになやみけるが、或夜の夢に、彼の太刀老翁と変じ告て曰(いわく)、我夭怪(やうくわい)を退んとすれど、汚たる人の手にて探られたりしによって、抜出る事叶(かな)はず、早く刀を浄めよとて、老翁は元の太刀となりぬと見へたりける、然りしかば刀の金精(きんせい)を拭(ぬぐは)せ、ことごとく清らしめ、未鞘(いまださや)にもささで傍に立かけ置しが、俄に倒れかかりて、かたへなる火鉢の台に鋳(い)つけたる鬼の頭(かしら)を切たりける、其後はかの夭怪は出ざりけり、この時よりこの刀を鬼丸(おにまる)とは名付しとや、この太刀後には相模入道の次男、二良時行(じろうときゆき)の手に渡り、建武二年八月、鎌倉において討死の時、大名四十余人、顔の皮を剥(はぎ)て自害したりしうちに、かの刀ありければ、扨(さて)は相模二良もこの内にあらんとて、刀は新田義貞の手に渡りしとや、かの刀を打たる鍛治は、奥州宮城郡(おうしうみやぎごほり)の府に、三(さん)の眞国(まさくに)と言者、三年精進潔斎して、七重に注連(しめ)をひきて打たる所の刃(やいば)なり、其刀は陽にして、今我得たるこの太刀は、鍛(きたへ)を試(こヽろみ)んために別に一振打たる也、是は陰の太刀にして、同事同作なり、されば鬼丸にもおとらざる名刀にて、是迄さま/゛\不思義なる事ありとて、妖魔切(えうまぎり)とは号(なつけ)たり、かの二振ともに、北条の家に秘蔵せられしが、勲功によって家臣何某(なにがし)に与へしと聞しが、さすればこの児(ちご)、かの功臣の子孫なる事疑なし、是天より我に与ふる所なり、この刀持時(もつとき)は、如何(いか)なる妖魔たりとも退(しりぞく)と聞伝ふ、かかる名刀の手に入る事、ひとへに神仏の加護なりと感嘆して、児を懐にかき抱き、携行(たづさへゆき)て代継(よつぎ)とし、また集たる諸草(もろくさ)をは、異人の告(つげ)に任(まかす)るに、毒気正(まさに)去て桂木は元のごとく快気すれば、家内歓びの眉をひらき、またかの児は、草守の告(つげ)によりて得たればとて、名を千草丸(ちぐさまる)と呼て、掌(たなひら)のうちの玉となし、日を経て生立(おいたつ)ままに、形(かたち)なを清らかに智恵賢(さか)しく、夫婦の愛いやましぬ、