第三回 千草之助、玉川に舟を浮かべて縁の糸を結ぶ

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  第三回 千草助浮(うかべて)舟(ふねを)玉川綰(わかぬ)赤縄(せきじよう)
斯(かく)て時光流水(じこうりゆうすい)のごとく、金鳥玉兎(きんちようぎよくと)の足はやく、既に天正二年に至り、千草丸(ちぐさまる)は千草之助久世(ちぐさのすけひさよ)と改、今年十七歳とぞなりける、世に稀なる美男子にて聡明伶悧(そうめいれいり)、人に秀(こ)へ、諸(もろもろ)の武芸に通じ、しかのみならず風流文雅の志深く、養父母に孝を尽しければ、皆人うらやまざるはなかりけり、或日忍びやかに従者(づさ)を将(い)て玉川に小船を浮べ、鵜飼(うかい)をぞ催しける、折々岸に舟を寄せ、準備(ようい)の破篭(わりご)、小竹筒(ささへ)を出し、山海の珍味あるが中に、名産の鮎の石焼などささめかし、楽大方ならざりけり、時に下部(しもべ)酒にや酔けん、過(あやまつ)て櫓(ろ)を取落しければ、もとより名高き玉川の、昨日(きのふ)の白雨(ゆうだち)に水嵩増(みずかさまさ)り、あはやと見る間に舟押流され、止むべきやうあらざれば、何の岸にや付待(つくをまつ)程なく、遥に流船したりけり、是そ一件(ひとふし)の珍事を引出すべき端(はし)なりけり、爰にまた布田右衛門(ふだへもん)とて、紬布(ほそぬの)をさらし業(なりわい)とする者あり、男女あまた召つかひ岸に館室(いえひ)をかけ造り、駿河を爰に江面(えづら)に移し、不二(ふじ)よりうへに踊る魚、その風景いわんかたなし、妻を垣根(かきね)といい、一人の娘を小露(こつゆ)とて年は十六日月(いざよいつき)の顔(かを)、鄙(ひな)に似げなく雪恥(ゆきはづ)かしき、肌(はだへ)の清くなよらかなる花の粧(よそおい)也ける、この日布さらす男女にまじらひて居たりしが、かの鵜船(うふね)この所へ流来つ、難儀の躰を見るより小露賢(かしこく)も、かの調布(さらしぬの)に石かひ包、舟の中へ投こみ、こなたの端をあたりの柳におし巻ぬ、人々歓びてかの布を手繰(たぐり)て、こなたの岸にぞ着にけり、この布こそ結べる縁の綱なるべし、さて千草之助船よりしづしづ出る、其人品、年未十重(いまだはたち)に満(みた)ず、たぐひなき美男子にて、かつ色(いろ)の袴(はかま)着てきらきらと錺(かざり)たる小鞘巻(こさやまき)を帯、いと風流に粧(よそほひ)ぬるにぞ、是ぞよしある人の君達(きんだち)とは言ねど、それと思(おもは)れける、小露は一目見るより耳ほてり、顔赤らめ、何と言べき詞(ことば)もなく、只さしうつむきて恥らひけるが、旨(むね)のうちの浪溢(あふ)るる思ひにて、かかるみやび男(を)はたぐひあるまじとて、後々の思ひの淵にぞ濡染(ぬれそめ)けり、また千草之助久世も小露がいみじく臈闌(ろうたけ)て、にほやかなる形容(かたち)に見とれ、同じ思ひの旨(むね)をこがしぬ、下女なるものこの躰を見るより、心して立出、先(まず)君には渋茶一つまいらせん、いざいざとて一間にぞ伴ひける、折しもこの日は水無月半(みなづきなかば)虫干にて、衣服、器物、書画の類、所せきまで打ちらしありけるが、出居(いでい)の方に錺置(かざりおき)たるは、鍬形打(くわがたうち)たる四方白(しはうじろ)の五枚兜(ごまいかぶと)ありけり、久世是を見るにかの兜は父うへの物語に聞つる一品(しな)なるべし、この一具(いちぐ)所持ある人、所縁(ゆかり)の者なるべしと心中に不審(いぶかり)つつ、主人(あるじ)にも対面し、この日の恩義を歓謝(よろこびしや)し、饗應(もてなし)の盃三遍(さかづきさんこん)におよび、亭主(あるじ)は席をすべりぬ、千草之助は端居(はしい)して、涼風(すずかぜ)に吹れ居たりけり、この時娘小露は楼(たかどの)にありけるが、かの壮佼(わかふど)に見とれ、胸に焼く火の消(きえ)もやらで、膝に袂(たもと)を打重(かさね)、只惘然(ぼうぜん)として思ふ様、かかる美男を夫(つま)になしてこそ、世に住む甲斐もあるらめ、今爰にあらずんは、いつか思ひをはらさんこと難かるべし、と轟(とどろく)胸をおし沈(しづ)めて、一ひらの短冊とりて、硯(すヾり)の海の浅からぬ思ひを君につげ野なる、鹿の巻筆染(まきふでそめ)にける、幸(さち)なるかな折から吹来る川風は、結ふの神のむすぶにやと投やれば、かの短冊翻(ひるがへり)、ゆくりなくも千草之助の膝のかたへに吹落ぬ、久世は只頭(かうべ)を回(めぐ)らせて見上(あぐ)れば、小露は楼の欄干(らんかん)に身をもたれ、互(たがい)に見かはし、火出(いづ)る斗(ばか)りに顔颯(さつ)と赤らめぬ、久世はいそかはしくかの短冊を取あげ見れば、
  我恋はむなしき空にみちぬらし
    思ひやれども行方もなし
と書たりけり、こは是古今集に見へたるなり、古歌のこゝろを推量(すいりようす)れば、やさしくもまたあわれなり、久世もとりあへず、
  あしべよりみち来る汐のいやましに
    君に心を思ひますかな
と伊勢物語に見へたるを、同じく短冊にかいつけて、鴛鴦刻(おしどりほり)たる片(かた)しの割笄(わりこうがい)に巻添て、楼へ投やりける、小露是をとりあげ見て、あまたたび押いただき、其嬉しさたとふべうもあらず、只酔(たヾえひ)に酔(えひ)たる風情にてぞありける、とかくする間に従者(ずさ)なるもの、はや御立(おたち)と告るにぞ、久世も今はあかなくに、まだしも西に日は傾、山の端(は)逃て入らずもあらなん、と主人(あるじ)夫婦の志を歎び聞へ、別れを告、名残(なごり)は共に鴛鴦(おしどり)の、中をせかるる岩瀬川、われても末(すへ)はあはんとぞ、言事さへも人目のせき、母はそれとは悟れども、知らず顔なる親心、さとられまじと娘気の、見かはせば見かへして、互に思ひます鏡(かヾみ)、心うつして別れけるとなん
 
  月の野露草雙紙巻之一 終