第五回 狭山治右衛門、知略をもって妖術を破る

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  第五回 峡山治右衛門勉(つとめて)蹇(くじく)妖術
時にこの程小露が閨(ねや)に夜な夜な通ふものあり、是何者と言事をしらず、歳いまだ十余り七ツ八ツとも覚(おぼ)しく、了角(つのがみ)にて人品賎(いや)しからず、女めきたる風俗に似げなく面逞(おもてたくま)しく見へたるが、度(たび)々通ひ来て深くかき口説といへども、小露は千草之助の事一筋に思ひ、重きがうへの小夜衣(さよごろも)、今さら夫(つま)な重(かさね)そと、度々断りてかへしけるが、頃しもさく花月の月影も、はや入かゝる十日頃、哀(あはれ)を催す虫の声、誰に吹かは秋のかぜ、常に流るゝ川音(かはおと)も、いと物凄(すご)く聞ゆめり、時にあやしいかな彼の美少年、何地(いづち)より来て何れの方を忍び入しにや、小露が閨(やね)に来りて言(いへ)るは、我是迄御身に深く眷恋(けんれん)し、さまざま心を尽すといへども、千塚(ちつか)に及ぶ王章(たまづさ)は手にだにふれず、百夜(ももよ)に積る錦木(にしきぎ)は朽(くち)も果(はて)なん難面(つれな)さよ、今宵はなるかならざるの、返答聞(きか)んと近(ちか)まさり、迚(とて)も角(かく)ても随はずば、さし違ふて死すべしと、詞(ことば)を尽してかき口説、つけて回れば小露はこはさに身をちゞめ、数ならぬ身を斯(かく)まで慕ひ給るは、わらはが身に取ては冥加(みやうが)なふ侍(はべ)れども、わらはには心に誓し夫有身(あるみ)、赦(ゆる)し給ひねと振切て、逃んとするを引とらへ、逃んとて逃さうや、夫有とは猶心外(しんぐわい)、我命あらんうちは、やはか落さで置べきか、と聢(しか)と捕へて動せず、小露は角鷹(くまたか)に抓(つま)まれし小鳥の如く、身をちゞめて退れんとすれども猶放さず、やよ父母様誰(た)そやある、盗人よ、人殺しと、声立んとあせれども、如何しけん、嗚(あ)とも、呼共(おとも)声出ず、夢におそはれうなさるゝ如くにて、只(たヾ)手足をもがくばかりなれば、裾(もすそ)ひるがへりて白き脛(はぎ)をあらはし、衣に留たる薫(たきもの)は男の鼻をくゆらせば、忽(たちまち)春心発動し、恰(あたかも)飢たる虎の羊の子を見付たるごとくの勢ひにて、煩惱の犬つきまとひ、無理無体に押伏せ、ほとほと猥りかほしき事なさんとすれば、小露は隠し持たる懐刃(くわいけん)を、男の股(また)へ突立んとしたりければ、早くも悟て懐釼(くわいけん)もぎ取、さも恨(うらめ)しげの顔色にて、あらあら悪(にく)き汝(なんじ)が振舞、順(したが)はぬのみならず、手向ひいたす上からは、生置(いけおき)て銓(せん)なし、と小露が胸もとへ懐刃を押當て、既に既に危き時こそあれ、峽山(さやま)の治右衛門はこの家に泊り居合(あはせ)て、一間にて最前より動静残らず聞居たり、襖引明(ふすまひきあけ)飛んで出、猿臂(ゑんぴ)を延しで少年(つのがみ)が襟むづとかい振(つかみ)、やにはに引かへさんとするを、了角(つのがみ)身を捻(ひねつ)て拂ひ退け、互に白眼へ合(にらまへあふ)て立たりける、其時小露は危命(あやうきいのち)助り、逃行んとしたりしが、手足しびれて動(うごき)得ず、片隅に畏(かがま)り居たり、二人は侮(あなどり)がたくや思ひけん、左右(さう)なくは打もかからず、了角(つのがみ)言、あし引の山猿(やまざる)、野鹿(のしか)などこそ手にもつかめ、あまさがる鄙人(ひなびと)のぶんざいにて、手出し事は及ぬ譬(たとへ)の水の月、恋の邪摩する侫人(ねじけびと)、片腹いたしと勾〓(ののしれ)は、この時治右衛門あざ笑ていへらく、いかに小冠者(こくわんじや)、不儀不動を行ひ、我身こよなき罪犯(つみ)ありて、人の身を嘲(あざける)や、我身は賎(いや)しくとも金石(きんせき)にひとしき治右衛門と言者なり、最前より様子を聞居たり、主(ねし)ある女に懸想(けんれん)して強姦邪淫(じやいん)を事とするは、不儀とやいはん非道とやいはん、返答いかに、と詰寄れば、流石了角(さすがつのがみ)も身の誤(あやまり)に答(いらう)べき詞(ことば)なく、惘然(ぼうぜん)として居たりしが、天にむかひ呪文(じゆもん)を唱へ、手に印を結(むすぶ)と見へしが、不思儀や猛然(たちまち)雲霧覆ひて、あたりを闇(くら)まし、小露をとらへ黒雲に乗(じやう)じ去らんとしたりし時、治右衛門透(すか)さず、傍(かたはら)に吠居(ほえい)たる矮狗(ちん)をかい振(つかみ)、脇腹をぐさと突やぶり、小露が叫ぶ声を眼当に雲中に投入れは、了角(つのがみ)の惣心(そうしん)、血ばしる狗(ちん)の血にまみれ、雲霧ぱっと消失(うせ)ければ、小露はしばし絶いりぬ、其時了角咬牙(つのがみはがみ)をなし、あら無念や、口おしや治右衛門、汝(なんじ)が智謀(ちぼう)によって我術を破れたれば、只得(せんすべ)なし、後日に思ひしらせん、今に見よ見よとて、外の方に立つよと見へしが、一陳の魔風さっと吹来り、形容(かたち)は見へずなりにけり、この時布田右衛門夫婦も爰に来り、消入し小露を呼生(よびつけ)、治右衛門に言けるは、我々最前より窺居(うかヾひ)たりしが、いかがしけん、手足しびれ声さへたたず、是も彼のものゝ魔法にてや候はん、治右衛門主(ぬし)の智略によって、娘の危き難をのがれ、誠に其許(そこもと)の智勇故(ゆへ)とあまたたび感謝しつ、また少年(つのがみ)が妖術を破りたまひしは、賢(かしこく)もとく謀給(はかりたま)ひつるなど問へば、治右衛門いへらく、さればとよ、狗(いね)は邪魅(じやみ)を防(ふせぐ)の獣(けだもの)なれば、妖術を破るには、狗の生血(なまち)を用る事、唐(もろこし)にも其例(ためし)あり、故に我斯(かく)は仕つるに、はたしてかやつ術をやぶられ逃去りたり、され共かの者、狐狸(きつねたぬき)の所意とも思へず、いかなるものゝ妖術を行ふにやとて、人々且惘且不審(かつあきれかついぶかり)、さらに眞実を知らず、然れども治右衛門が智勇にや恐れけん、其後は何の子細なく、しばらく不在話下(はなししもになし)