第七回 慳九郎、高尾山の神域に入って神罰をこうむる

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  第七回 慳九郎侵高尾山神罰
爰に武さしの国、高尾山といへるは、抑(そもそも)人王四十五代、聖武天皇十六年甲子(きのへね)、行基菩薩、薬師如来の尊像を彫刻し、始てこの山を創々し、有喜寺薬王院(ゆうきじやくおういん)と号(なづけ)給ひ、其後また、夢中の告ありて、飯繩権現(いづなごんげん)を安置し、其霊威赫々(かくかく)たり、山には歳(とし)ふりし一本杉、森々として、木の間に萬年水湛々たり、佛法僧(ぶつぽうそう)の異禽飛鳴(いきんひめい)して、三宝の声を一鳥に聞く、強盗来て侵す時は、治罰(じばつ)する事立所(たちどころ)に其しるしあり、神使の霊烏(れいう)、朝夕にして二羽の外余烏(ほかよう)をまじへず、山中に十景の名地あり、其外霊験奇事、一々あげて員(かぞ)ふるに遑(いとま)なし、されば竪野千草之助久世は、この御山(みやま)に通夜しけるが、日々に家来荻蔵(おぎぞう)をもて、父の病(いたつき)の容躰を伺ひ知るといへども、この日はあまり風雨はげしさに怠りしが、かの二羽の烏、夜中ながら、千草之助の篭(こも)り居たる辺(ほと)り近く啼(なく)事しきりなりければ、久世是をあやしび、荻蔵に言へるは、夜深なれども汝行て父上の病容如何なるや、安否を問ひ参るべし、荻蔵畏(かしこま)り候とて、頓(やが)て其よふいをしつ、尻ひっからげ出て行、折しも風雨はげしく、提灯(ちやうちん)も吹消され、闇夜をほくほくたどり行に、向ふより来る者あり、是も松明(たいまつ)もともさず、何人なるやとあやしめば、そなたも窺ふ躰なりしが、荻蔵すかし見るに、四五人連(ずれ)と思(おぼ)しくて、互に答もせず、すれ違ふて行過ける、這奴(こやつ)何者なれば、広之進を討たる慳九郎等也、千草之助を討ち、名劒を奪はんと宮居(みやい)をさして急ぎ来る也、荻蔵是を露斗りも知らざれば、主家をさして急ぎ行に、御山を下り浅川の辺(ほとり)迄来りし時、向より又いそがはしく来る人あり、提灯の印を見るに主人竪野の印也、間近くなれば荻蔵声かけ、竪野の足軽中には候はずや、我は荻蔵なり、大旦那の御病気窺んとて参る也、と言ば、こなたも荻蔵と聞より、せきにせきて言けるは、其大旦那こそ、今宵盗賊の為に討れさせ給ひつるなり、この事千草之助様にしらせ申さんために参る也、と聞より荻蔵思はず大地にどふと座し、しばし詞(ことば)もなかりしが、良(やや)あって言、其盗賊は何者なるや、証拠手掛りありや、と言へば、足軽言、其証拠には見覚の小刀(こづか)あり、敵(かたき)は慥(たしか)に横路慳九郎、と聞より荻蔵拳(こぶし)を握、しなしたりや口惜(くちお)し、我御館(みたち)に有ならば、やみやみと討せまじものを、と泪(なみだ)を流し歯を噬(くいしばり)、十方(とほう)にくれて立たりしが、急度(きつと)思ひけるは、今高尾山の坂中にて行逢たる奴原(やつばら)こそ慳九郎等によく似たり、千草之助様の御身の上覚束(おぼつか)なし、我は是より取て返し、事のやうすを申上、慳九郎等を討とらん、足下達(そこたち)はとく帰りて御館(みたち)を守るべし、と言つつ、提灯へ火を移し、飛がごとくに高尾山へ立帰る、既に麓にさしかかれば、荻蔵々々と呼者あり、荻蔵急度(きつと)見かへれば、白眉白髪(はくびはくはつ)の老翁、荻蔵にいへらく、汝(なんじ)この本道(ほんどう)を行なば必命を失ん、汝等主從を害せんとする夭怪(ようかい)の曲者ありて、今宵七曲(ななまがり)の坂まで登りつれど、飯繩権現(いづなごんげん)の神威に恐れて本社近くは登り得ず、本道七曲りに汝等が来るを待、我よき道を案内すべしとて、先に立て暫く行、この道を行ば必琵琶を弾ずる音あるべし、是を枝折(しおり)に行ば、しかも宮居(みやい)へ近道也、必しも汝等主從、今夜明るまではこの山を出べからず、この事用ひざれば一命を過(あやまた)んと告たりける、荻蔵かの妖怪(ようかい)、何がゆへに我等主從に讎(あだ)をなすや、と問んとする時、不思儀や、かの老翁はかきけす如くに失(うせ)にける、荻蔵奇異の思ひをなし、扨は飯繩権現老翁と現(げん)じたまひ、危難を救ひ給ふなるべし、と感拜(かんはい)し、辛じて細道を行程に、異人の告(つげ)に違(たが)はず、琵琶の音はるかに聞ゆ、扨こそとて荻蔵是をあてに行て見るに、琵琶を弾(だんずる)にはあらで、松吹(まつふく)かぜ琴の調(しらべ)にひとしく、其形四弦(かたちしげん)に帛(きぬ)を裂(さき)たる如く滝あり、其音岩に答(こと)ふて琵琶の音にことならず今にこの滝を、琵琶の滝と言、かかるゆへなるにや荻蔵はこの滝を左に見、宮居をさして急ぎける、放下一頭却説(これはさておきはなしあとへもどる)、さても慳九郎等は社前に来り、千草之助の通夜して居たる坊の内を張看(うかがふ)に、何か囁く声聞へければ、先動静(ようす)を見すまさんと御唐戸(みからど)に耳おし当て聞居たり、時に奇なるかな妙なるかな、慳九郎が耳御唐戸に吸付て、ふつに離れず、慳九郎主從大に慌(あわて)、飯繩権現に詫るといへども、神は非礼をうけたまわず、慳九郎が悪逆、しなてる神の鏡にうつり、たちどころに治罰(じばつ)ある事、不思儀と言も愚なり、闇八、釜平、土左衛門等、慳九郎にとりつき、引ども引ども耳は猶吸付て離ればこそ、幼稚遊(おさなあそび)の駒(こま)どりにことならず、痛ひと言も忍び声、見苦しくもまた心地よし、時に不思儀や、鐘楼に人なくして、早鐘の音おのれと鳴ひびくにぞ、寺内の人々すはや出火よと打さはげば、慳九郎いよいよ愕(あわて)、今は只得(せんすべ)なく刀を抜て耳をきり捨、門外へ逃去りけり耳付の板今に当山の霊宝に有 かかる所へ荻蔵は異人の告にまかせ、この所へ走着(はせつき)、門外にて慳九郎に出合(いであい)、提灯のあかりに互に見合(みかわし)、おのれ慳九郎主人の敵遁(かたきのが)さじと、高らかに声かけて抜合(ぬさあわせ)、多勢(たぜい)を相手に荻蔵が、忠儀に凝(こつ)たる切先刃先(きつさきはさき)、火花をちらして戦かふ内、寺内の人も寄重(よりかさな)り、千草之助もこの事を聞よりも、おつ取刃(とりがたな)に欠付(かけつけ)て、無二無三(むにむざん)に切て入れば、流石(さすが)の慳九郎等切立られ、一なだれに神代杉(じんだいすぎ)のあたりまで、請太刃(うけだち)に逃下りしが、あら不思儀や、七曲の方より黒雲起、震動雷電(しんどうらいでん)して山崩るるよと見へしが、慳九郎等、其雲中に飛入、かきけすように見へすなりぬ、千草之助、荻蔵等は歯噛(はがみ)をなし、譬(たとへ)猛火の内に入とも、やはか助(たすけ)て置べきかと、うづまく雲中におどり入らんとすれば、先刻の老翁あらわれたまひ、千草之助危(あやう)し危し、天の時至らず止(とどま)るべし、と制したまへば、荻蔵急度(きつと)心付(づき)、千草之助に先刻の一五一十(いちぶしじゆう)を語る折から、本社の方より光りものひらめけば、雷電忽(たちまち)晴渡り、兎角(とかく)するうち夜はほのぼのと明にけり、千草之助は双足乱跳(じだんだふみ)、天に叫び地に転(まろ)び、無念泪(なみだ)にくれ居たる、良(やや)ありて千草之助の館よりも、追々に走参り、麓の者も大勢走り登りて言、早鐘の音聞へし故、とりあへず登山せんとせしに、七曲のあたり震動して大石崩れ落て登る事能(あたは)ず、只得(せんすべ)なく扣(ひか)へたり、曲者遠くは行まじとて所々手分をなし、ことごとく尋けれども、影もなく逃失(にげうせ)たり、千草之助は無念ながら、先(まづ)館にぞ帰りける、扨こそ当山神霊に、強盗来りて侵す時は、早鐘の声自鳴(おのづからなる)と聞伝ふ、慳九郎立所(たちどころ)に治罰(じばつ)をうけ、耳御唐戸に吸付たる事ども、狎侮(なれあなどる)べからず、恐るべし、尊(たつと)むべし、且七坂(ななまがり)に出て慳九郎を助し夭怪、何れの者や、後巻を見て知るべし、扨も千草之助久世は、館にかへり、母に対面してさめざめと泣かなしみけり、扨しも有べきにあらざれば、葬(ほうむり)のかまへをなし、野辺の送りして、一片の煙となし、仏事ねもごろにいとなみ終り、父の仇(あだ)にはともに矢を頂ず、仮令(たとひ)慳九郎天に道あり、地に門ありて入とも、尋出さで置べきかと、主君氏照公に敵打(かたきうち)の願を立るに、相公(との)にも甚(はなはだ)感激したまひ、早速暇(いとま)たまはり、母桂木は思旨(むね)あれば、あとより出立すべしとて、千草之助は荻蔵を具(ぐ)して、吉日(きちにち)を選みて出立けり
  月の野露草雙紙巻之二 終                   (以下、次集へつづく)