我が国の養蚕も中国の歴史書「魏志倭人伝(ぎしわじんでん)」にみられるように弥生時代にまでさかのぼれます。布、絹織物の出土品もありますが、どのような養蚕であったかは推定するだけです。
江戸時代になると昭島地域の「村方明細帳」などに蚕のことが散見され始めます。例えば享保五年(1720年)八月の上川原村につき、「一、蚕之儀村中女稼ニ少々宛ニ仕候」。延享三年(1746年)にも同様の書上げがあります。(指田茂十次家文書、昭島市史付篇)
そのころ、畑には大麦、小麦、秋作には粟、ひえ、いも、そば、菜、大根、ささぎ、それにたばこを少々作っていたとあり、また農業の間に男は五日市から炭を買付け江戸へ送る駄賃稼ぎをし、女は木綿、紬を少しずつ織っていると書かれた記録もあります。(田中村の寛政十一年(1799年)乙幡ツネ家文書その他)。また市史付篇の年表には天明元年(1781年)拝島村に絹織物の市がたったことや、天保十年(1839年)、上川原村に繭の仲買商がいたことなどがあげられています。養蚕指導書も著されるようになりますが、一般に広まったとはいえません。いずれにせよ、養蚕が農家の副業として進んできていたことがわかります。
それが幕末の安政六年(1859年)横浜の開港を機会に、蚕種や生糸の輸出が盛んになり、関東山麓一帯の村々は養蚕、製糸業に力を入れ、わが国養蚕地帯の一つとなったわけです。そのころヨーロッパでは蚕の微粒子病(びりゅうしびょう)が流行り、日本の無病の蚕種を求めたからでした。
明治30(1897年)ごろからは養蚕も次第に副業から農村の主要産業に成長発展しました。しかし昭和時代に入ると経済恐慌や化学繊維の発明、戦争の影響を受け、特に昭島市には昭和13年(1938年)ごろより急速に軍需工場ができ、養蚕、製糸業は衰退してしまったのです。戦後一時復活したとはいえ、もうそれは昔日の栄えは望むべくもなかったのです。
蚕の飼育用具(蚕室、消毒、掃き立て、暖房,桑つみ、給桑、)
昔から、明治の初期ごろまでは、自然の気温にまかせていました(自然育・清涼育という)。明治中期ごろより暖房を加えた温暖育という方法を取り入れました。これにより飼育期間が短縮され、そして平飼いからたてじ(差段)を用いた立体的飼育になっていきます。
春蚕の掃立期が近づくと、蚕道具を川で洗ったり、消毒したり、すすはきをして蚕室を整えます。室の目張りもします。蚕種屋から孵化したばかりのものを受け取り、掃き立てます。一日に6~7回も早朝から夜半まで、桑をきざんで与え、4回の脱皮(「とまる」という)をへて、やがて繭をつくるようになります。最近の養蚕は人工飼料で、一日1回ぐらい与えるだけといいます。