原士とは

原士と称される在郷武士は、江戸時代において、多くは市場町興崎・柿原村広永に集団として組織的に居住していた。他の町村に居住していた原士は組織的ではなかった。
 
原士とは、徳島藩特有の身分で、他藩の郷士とは違い、はっきりした藩の在地家臣団で、当初は家老長谷川氏の直属配下の半農半士の在村藩士であったが、寛政三年(1791)長谷川貞幹が失脚した後は郡奉行に属するようになった。
 
原士の名称は、原地を賜った士からきていると言われているが、初期の頃には原侍(はらさむらい)といわれていたと見られる。
 
原士の起源は、家政が慶長年間に巡国したとき、香美原に原野や荒地が多くあったので、その開拓をさせるために、その付近に住んでいる土豪に土地を与えて士分に取り立てたのが最初だとも言われている(注1)。
しかし、原士(はらし)制度の成立は蜂須賀家記によると慶安三年(1650年)に二代藩主忠英が領内を巡視した時、阿波郡内に未開墾の原野が多いのを見て、この土地を筋目正しい浪人や家臣の二・三男に拝領地として三町五反から十五町(注2)を与え、家臣団に編入して藩の兵力増強の一助とすべく創設するように随行していた家老長谷川貞恒に対し命じたとも、また長谷川貞恒が阿讃両国境の警固をも兼ねた計画を建議したことに始まるとも言われている。
そのため、寛政までは家老長谷川家の与力並として代々配属された。
阿淡年表秘録によると原士は長谷川家の代替わり毎に改めて預けられ、形式的には一代限りだが、実質的には世襲であった。
原士の多くは柿原村広永や、市場町興崎を中心に約六十戸あり西条原、香美原(後に興崎と改称)の開墾に従事して、農業に従事する傍らで参勤交代の警護や阿讃国境警備、百姓一揆の鎮圧、勧農普請の監督などを努め、幕末期には海部海岸や京都、江戸湾の警護にも当った。
 
原士の身分は、平常は郷高取(ごうたかとり)の次、庄屋の上位にあり、戦時においては組士(高取士分)並、下士並であった。また殿様への御目見(おめみえ)ができた。
原士は常時文武の道を励み、在郷では卓越した権威と格式をもっていた。
 
注1.慶長九年蜂庵(蜂須賀蓬庵)よりの高札(判物)として次のものが市場町に残されている。
  当郡市場村荒地之儀隣郷にて役はすれの百姓並流浪人罷出可相開候一作は不可有年貢候翌年より聊之上分可相計者也
     慶長九年正月八日   蜂庵(花押)
                         (市場町歴史民族資料館蔵)
 
注2.実際の面積は、市場町役場で地籍調査を行ったところ、書かれている面積の約3倍であった。
注3.興崎の名は、原士のサキを興すという意味より慶安四年五月に徳島の興源寺の和尚の考案によるとされている。