原士の組織

徳島藩が出来た初頭の頃は、戦国時代の末期で、まだ多くの戦争があり九州、小田原、朝鮮、関が原、大坂へと出陣していた。こうした状況の下で、徳島藩としては軍事経済の面から原士を取り立てたと考えられる。
そこで原士は、広長組二組と興崎組二組の計四組が編成された。
その後、所々の原野を与えられたものが十二人いた、これらの人は方々組と称した。
以上五組で組織は編成され、おおよそ六十人、支配原地は三百三十九町六反であった。