[翻刻]
江戸三田御屋布内ニ在番之節
嘉永七年寅十一月五日
朝五ツ半時、俄ニ大震ニ相
成御長屋もあやふうく
相見へ候事故、孰も外へ
飛出候処半時程之間震
相止申候、内へ入候処壁杯
大ニ損相見御座候処、又々震
出候、是故外ニ飛出尤四日程之
間度々候
一御国許より上急、同月十二日
上御屋布着右様子承り候処
稲田・賀島御両家焼失、内町
出火島々潰家大ク怪我
人有之趣追々御飛脚到着
意細承り候処、御国元七八部損
又ハ南海部辺ハ津波ニ而人
家引込レ候様子承、江戸ニ居
なから唯心配巳ニ而、昼夜見
兼候義ニ候、且彼地ニ而絵図ニ相成
候処ニ而ハ、廿四ヶ国大痛、其内
阿波三番之痛之様子承り申候
[現代語訳]
三田屋敷にいた、嘉永七年寅の十一月五日朝五つ半時(午前九時頃)突然大地震となり、長屋も壊れそうになったので急いで外に飛び出した。揺れは一時間余り続いた。揺れがなくなってから、家の中に入ると壁が落ち大きく壊れていた。それからも四日間程は、外に飛び出すほどの揺れがたびたび起こった。
一 国許から十一月十二日に上屋敷へ連絡があった。地震により稲田・賀島の両家が焼け、内町で出火。島々では多くの家が潰れ怪我人も多く出た。これらの事は飛脚で連絡があった。徳島の七から八割が損ない、南の海岸部では津波が起こり人・家が海に引き込まれたと聞きました。
この様子は江戸にいて聞いたのですが、心配でならなかった。その状態は、絵図になり二十四ヵ国が被害を受け、阿波国は三番目に被害が大きかった
注 上急
早飛脚。特急の飛脚。