野見宿祢から数百年後、土師氏は四流に分かれ、近畿地方各地に広く繁延していました。桓武(かんむ)天皇の御代(781年)、そのうちの一族である土師古人(はじふるひと)(道真の曽祖父)が現在の奈良市菅原町に住んでいたので菅原改姓を請願(せいがん)し、許されて菅原姓となりました。
古人は桓武天皇の侍読(じとう)(教師)を務めた学者でした。古人の子清公(きよきみ)(770~842、道真の祖父)はとびぬけた秀才であり23歳で第16回遣唐使判官(ほうがん)に任ぜられ、最澄・空海と共に入唐し、1年後に帰朝して文章(もんじょう)博士から大学頭(だいがくのかみ)となり当時の第一の学者であったと同時に、諸官を歴任し、従三位(じゅさんみ)に叙(じょ)せられ公卿(くぎょう)(三位以上の高い朝官(ちょうかん))の列に入りました。
清公(きよきみ)の子是善(これよし)(813~880、道真の父)もまた幼少より聡明(そうめい)で11歳で天王の前で書を読み、詩を作りました。文章博士、大学頭を経て、参議、従三位まで昇りました。