父祖三代の輝かしい学者の伝統の家に生まれ、道真はその伝統をしっかりと受け止め、さらにそれを発展させるだけの才能と気力に恵まれていました。父祖の優秀な学者的素質はこの人に遺憾(いかん)なく伝えられ、その天性の資質はこの人の精進(しょうじん)によってさらに磨き高められ、家系が個人に幸いし、個人が家系を高めた実例の最も著しいものでしょう。
父是善は道真を立派な学者にしようと、当時第一級の学者、都良香(みやこのよしか)を師として、歴史、文章法、詩作りなどを学ばせました。道真11歳の時、「月夜見梅花(げつやばいかをみる)」という漢詩を詠みました。この詩は少年の作としては着想や言葉の使い方の巧さに目を見張るものがあり、師の都良香は道真の詩才に驚いて「我が浅学(せんがく)を以って教(おし)うべきにあらず」と、それからは師としてではなく、朋友(ほうゆう)として交わったと伝えられています。
16歳で文章生(もんじょうしょう)(式部省の試験に合格)となったのをふりだしに少壮(しょうそう)の官吏(かんり)として出世し、学者としても33歳で最高の地位である文章博士(もんじょうはかせ)となりました。当時も官吏となる国家試験の競争が激しく、その受験勉強のための私塾が各氏族毎にありました。(菅原氏の菅家廊下(かんけろうか)・藤原氏(ふじわらし)の勧学院(かんがくいん)、和気氏(わけし)の弘学院(こうがくいん)、橘氏(たちばなし)の学館院(がくかんいん)など)
36歳の時に道真の父是善が亡くなり、父祖伝来の私塾・菅家廊下を受け継ぎました。また最高の地位の文章博士が私塾の総長の立場を兼ねたことで、道真は出世を妬(ねた)まれ、猜疑(さいぎ)の目で見られることがありました。