しかしながら、道真は国司としてまじめに政務にあたり、域内を視察して、京(みやこ)にいては感ずることのできない地方の民の悲惨な生活状況を把握し、自分の讃岐の生活を通して、地方の人々と交流したことが、後の道真の政治家として大成する基(もと)となったと思われます。4年間の在任中、政務のかたらわら、153の漢詩を作っており、民の世相を詩にした「寒早十首(かんそうじゅっしゅ)」や綾川や滝宮に関わる多くの詩が残っています。
また、888年(仁和4)讃岐の国は大干ばつで日照りが続き、雨が降らず、民は田植えが出来ずに困っていました。道真は城山(きやま)神社にこもって七日七夜(なぬかななや)の間、天に向かって雨を降らしてくれるように祈願し、満願の日に雨が降り出し、民は大いに助かり、喜んだと伝わっています。
890年(寛平2)春、4年間の国司の任期を終えて京に帰りました。道真はその時46歳、人間として、政治家として、学者・詩人として経験豊かで見識に富み、当時の第一級の人物だったと思われます。
道真が京に帰った翌年891年(寛平3)政治勢力の最大門閥(もんばつ)、藤原氏一門の総帥(そうすい)、関白藤原基経(もとつね)が死去します。基経の子藤原時平はまだ21歳の若さでした。このときの天皇は4年前に青年天皇として即位した25歳の宇多天皇でした。宇多天皇はこの機に乗じて朝廷の人事を刷新(さっしん)して自らの理想政治の実現を目指しました。天皇は道真の見識、経験、人物に感じ入り、道真を登用してその信任は厚く、京に帰ってからの道真は予想しなかった速さで出世し、政治の中心的任務を帯びるようになりました。
蔵人頭(くろうどのとう)、式部少輔(しきぶのしょうしょう)、左京大夫、参議、式部大輔(しきぶのたいゆ)、勘解由使(かげゆし)…。
894年(寛平6)道真は第18回遣唐大使に任命されました。日本は630年の第1回遣唐使派遣以来、838年の第17回まで当時の先進国、唐の文物、制度、思想などを幾多の困難を乗り越えて吸収してきました。(当時の航海、造船の技術では四つの船全てが任務を全うして全員帰国することが珍しく、多くの船が沈んだり、行方不明になったりした。また、外交史としての船費、土産、随員の旅費など莫大な費用が要った)
道真が遣唐使に任命されて唐の実情を調べたところ、唐の国内で内乱が起こり、唐の国の没落期(ぼつらくき)であり唐から学ぶべきことはあまりなく、莫大な費用と危険を冒して行く価値がないことを確信して遣唐使の廃止を献策し、廃止が決定されます。(この12年後に唐は滅びる)
この遣唐使の廃止に伴いそれまでの中国文化の模倣(もほう)が薄らぎ、わが国独自の文化が芽生えるきっかけになりました。
897年(寛平9)道真は権大納言、右大将に、藤原時平は大納言、左大将に任じられ、二人は群臣(ぐんしん)の頂点に立って進むことになりました。この発令がなされた十数日後に宇多天皇は皇太子に譲位し、新帝醍醐(だいご)天皇の時代となります。宇多天皇はまだ31歳の壮齢なのになぜ譲位したかは不明です。(このとき新帝13歳、道真53歳、時平27歳)
滝宮天満宮に掲げられている道真の肖像画
宇多天皇は譲位(じょうい)に際し、時平と道真に対し、「新帝はまだ若いので全ての政治は二人が行うこと」と命じ、新帝には「寛平御遺戒(ごゆかい)」を与え「時平は功臣の後裔(こうえい)であって年は若いが政治に熟達している第一の臣であるからよく意見を聞いてその輔導(ほどう)を受けよ」「道真は学者であって深く政治を知るから新帝の功臣(こうしん)というべきものである」と伝えています。
899年(昌泰2)道真右大臣、右大将に、時平左大臣、左大将に任じられます。
901年(昌泰4)正月7日、時平と共に従二位に叙せられ、この時点では道真はまさに破竹の勢いでした。しかし好事魔多(こうじまおお)しというか、わずか半月後に予想もしない事態が起きます。