同月25日、天皇は詔勅(しょうちょく)を発して、大宰権師(だざいごんのそち)(定員外で実権の無い九州の長官)に任命されて京から流されます。道真の急な出世と勢力拡大(道真の私塾「菅家廊下」の出身者が官吏の半数近くになる)を恐れ、妬(ねた)んだ藤原一派の総帥時平と学問のライバル三善清行(前年に54歳でやっと文章博士になった)が仕組んだクーデターと伝えられています。
道真が醍醐天皇を廃してその異母弟である斉世(ときよ)親王(道真の娘が正夫人)をたてる謀反(むほん)の志があると画策され、それを信じた天皇の詔勅でした。
道真が自分の屋敷に別れを告げて西下する時に梅の花に託して自分の心情を詠んだ詩として有名で後世によく伝わっています。
「東風(こち)吹かば にほひおこせよ 梅の花 あるじなしとて 春をわするな」
(後に、「春なわすれそ」と書かれるようになりました)
官吏の要職についていた道真の子息4人も同時に別々の場所に流されました。
「父子一時(いちじ)に、五処(いつどころ)に離れ、口は言うにあたわず、眼の中は血なり」と詠んだ道真の心中は察するに余りあるものです。
道真の処遇は「道中に食馬(しょくば)を給さず、謫地(たくち)(罰を受けて流された配所)で任務に預からしめず」と罪人扱いでした。このため役人たちは道真に食物を与えることも口を利くことも恐れて、近づかなかったと伝わっています。
大宰府に着いてからの居住、太宰南館は老朽化して廃屋状態でした。食糧も乏しく、灯油もまたすぐ切れ、大宰府での生活は悲惨なものでした。
『寒夜(かんや)灯(ともしび)滅(めっ)して 愁人(うれいびと)眠らず ひとり廃屋(はいおく)に座(ざ)して 語るに友なし』
道真が流された時すでに57歳で体力も衰え、もともと病弱の身でこのような悲惨な境遇に落とされて望郷の念にかられ、失意と悲憤の中で2年後に亡くなります。
時に903年(延喜3)2月25日、道真59歳でした。